抜け出して











「それ、飲むなよ」








え?と不意に隣から掛けられた声に顔を向ける。色素の薄い美しい彼は私の手からグラスを奪い取ると近くにいた店員に渡してしまった。一口も飲んでいないお酒は丸い盆に乗って運ばれていき、しまいには見えなくなってしまう。それを見届けた彼は一つため息をつくと「中になんか入れられてたぞ」とジョッキを渡してくれた先輩の方を睨むように見つめていた。突然のことで理解が追いつかない私の頭の中に最近SNSで見かける"トイレに行くときはお酒を飲み切りましょう"という注意喚起の文言が過ぎる。まさか、そういうこと、なのだろうか?一気に顔から血の気が引いていくのを感じる。思わず縮こまった私を見下げた彼は少し黙り込んでからテーブルの下で私の手首を捕まえると、周りには聞こえないくらいの小さな声で言った。"今から抜けるぞ"と。







「……あー、疲れた」
「ほ、ほんとに抜けちゃった……」







そう呟いた私の声にそりゃそうだろ、とぼやいた彼は自販機で林檎ジュースのボタンを2度押して、流れ作業のように取り出し口からペットボトルを引っ張り出す。そのうち一つを半ば押し付けるように手渡され、断る間もなく受け取ってしまったが本当に良いのだろうか。簡素な公園のベンチに腰掛ける私達は夜の街にあまり似合わない気がする。一先ずありがとうございます、と感謝を伝えると、彼は少し不満そうに「同期だろ」と答えた。敬語はやめろ、という事だろうか。






「ご、ごめん、その……ありがとう……」
「……別に良いけど、お前危機感無さすぎ。勝手に頼まれた酒なんか飲むなよ」






正論だった。変なものが入っていなかったとしても、自分が飲めないような度数なら結局後で困るのは私だ。何も言い返せなくて唇を噤んだ私に眉を寄せると、彼は少し視線を外しながら怒ってる訳じゃない、と答えた。綺麗な造形の横顔と長く伸びた白い睫毛が小さく揺らぐ。彼……もとい、五条悟くんは相変わらずかっこよくて、美しい。仄かな電灯の下でも尚、彼の姿は夜によく映えていた。静かな公園で2人ぼっちの私達の間に会話は無い。私も多少噂は聞いていたけれど彼と面と向かって話すのは初めてだし、きっと彼は尚更私の事なんて知らない筈だ。共通の話題すら思い付かなければ、五条くんに気軽に話してかけて良いのかも分からない。






「……お前は、覚えてないかもしんねぇけど」






ぽつ、と突然落とされた言葉に顔をあげる。彼は迷うような、どこか恥ずかしそうな表情で奥にある滑り台を見つめていた。何を言われるのかと体を硬くする私を気にする事なく五条くんは話し続ける。前の飲み会でも隣だった、と語る彼に一月前の記憶を漁るが、やはり定かではない。あの時は結構飲んでいた気がするし、本当に忘れてしまったのだろうか。折角彼が覚えていてくれているのに酷いことをしている、と内心落ち込みつつも、今度こそ一語一句聞き逃さないように集中して相槌を打った。






「俺は元々そんな酒得意じゃねぇけどアイツらは馬鹿みたいに飲むだろ」
「そう、だね……先輩たちもみんな結構お酒好きだよね」
「付き合いで多少は飲むけど正直次の日キツイんだよ。……でもあん時お前、俺の代わりに全部飲んだろ」





そりゃあれだけど飲めば覚えてないだろうな、と鼻で笑う彼のエピソードの思考が完全に停止する。必死に脳内の検索エンジンをフル稼働したものの、やはり少しも引っ掛からない。確かに先月の飲み会は二日酔いになるぐらいに飲んでいた記憶はあるが、それが彼の為だったのかどうかは思い出せなかった。ぼんやりと霧掛かった意識を漁り、そういえば隣に座っていた人が明らかに嫌そうな顔をしていたなぁ、という認識だけは何と無く残っている気がしたけれど、確実にそうだ、とは言い切れない。



けれど、今話している彼が嘘をついてるようにも見えなかった。そうなんだ、と納得するように首を振る私に五条くんは一度を瞬きしてから「お前さ、」と呆れ混じりの声を吐き出す。また何かしてしまったのだろうか、と不安に思う私に彼は"これがタチの悪いナンパだったらどうするつもりなのか"と顔を顰めていたけれど……流石に心配し過ぎだと思う。第一相手はあの五条くんだ、彼がわざわざナンパだとか女の子を誘うような手段を取るイメージは少しも湧いてこない。困ってないだろう、と表現すると人聞きが悪いかもしれないが、実際の所、こんなにも整った顔立ちの彼が飢えているとは考え難かった。







「でも、五条くんは私なんて相手にしないでしょ?」
「……今絶賛お前を連れて飲み会を抜け出した男に言うことか、ソレ」
「え?でも、あれは建前じゃ……」
「ただの"建前"だけで堂々と抜けるとか言える訳ねぇだろ」
「……え、え?だって、」
「捺、」







ぐ、と不意に距離が近づく。人1人分空いていたベンチの間が詰められて、彼の顔が目の前に現れた。息を飲み込んで、ひゅ、と喉を鳴らした私の名前を初めて呼んだ彼には冗談や揶揄いに近しい表情は浮かんでいない。寧ろ真剣そのもので、喉の奥の方がカラカラに乾くのを感じる。私の手の上に彼の大きな掌が包み込むように触れて、ぎゅ、と捕まった。バクバクと動き始めた心臓の音を感じながら五条くんは私の耳元に唇を寄せる。








「……俺んち、来いよ」







ぞわり、と背筋に込み上げる感覚に肩が揺れた。彼は、本気で?ぐるぐる回る思考の中、あまりにまっすぐな彼の瞳に負けて無意識に頷いた私に五条くんはやっぱり少しだけ呆れたような、それでいて嬉しそうな顔をして「もっと警戒しろよ馬鹿」と笑った。









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