ただほんの少し君に触れたかっただけ。
天真爛漫な君のその暖かな温もりに。
その優しい笑顔に、近付きたかっただけ。
『久々知君?』
「わ、ごめ…何?」
『珍しいね、久々知君がボーッとしてるなんて!もう一回言うね、今回の実習の事なんだけど…』
「うん」
くのいち教室、五年の一条 藍さん。
俺の気になる人。
出会いなんて前過ぎて忘れてしまったけど、くのいちらしかぬ彼女の優しさに俺はいつの間にか心惹かれていた。
それを気付いても行動する事が出来ないまま、ずるずると気持ちを引き摺ってきたけど今回はそうもしていられない。
何故なら、
『何だか緊張するよね、夫婦のふりって!』
「そうだな」
『ふふ、久々知君てば本当に緊張してる?』
「え、何で?」
『ちっとも顔や態度に出ないから!』
そう、五年生の実習で夫婦のふりをしながらある屋敷の偵察をする事が今回の課題。
その相手役として今回一条さんが選ばれたんだ。
にこにこしながら俺に話しかけてくれる一条さんに本当はかなり緊張している。
勿論それを悟られないために努めて無表情で居るだけで、内心は心臓が早鐘を打っている…なんて言えるわけない。
「忍のたまごだから、かな?」
『流石、優秀ない組の久々知兵助君!』
「…誉められてる気がしないのだ」
『えへへ、ごめんごめん』
手を叩きながらあからさまに誉めてくる一条さんにちょっと顔を赤らめつつ、唇を少し尖らせれば直ぐに飛んでくる謝罪。
勿論俺も本気で拗ねてる訳じゃない事を彼女はきちんと知っているからお互いに笑いあう。
因みにここは忍術学園の正門から少し歩いた山道。
「しかし、夫婦のふりで屋敷の偵察なんてまた難しい設定なのだ」
『確かにねー。でも課題ならそうは言ってられないし、とりあえず歩きながら夫婦の練習してみようか!』
「賛成だけど、夫婦の練習って例えば?」
『え、う…うんとね…』
一日かけてやる課題だから、そこまで時間は押してもないけど夫婦の練習ってどんなものか想像がつかない俺は一条さんに聞いてみる。
彼女も考えていなかったみたいで、悩むように首を捻った姿に自分でも驚くくらい自然に笑みが溢れた。
「一条さん、首痛くなるよ」
『あー!』
「…え?」
『それだよ!その、一条さんって言うのやめよう?』
「っ、!」
『夫婦が名字で呼び合うなんておかしいもんね!良かったー、気付いて』
鼻唄を歌いそうな程に一条さんは浮かれているけど、実習とは言え彼女の名前を呼び捨てにするなんて…
いやいや、課題も大切だしこんな機会二度とない。男兵助、必ず乗り越えて見せる!!
『兵助』
「……、はい」
『はいじゃなくて、そう言う時は私の名前呼ぶんだよっ?』
いきなり自分の名前を呼ばれた事に脳の機能が一時停止したけど、何とか回転させて返事だけは間に合った。
それでも彼女は不服そうに頬を膨らましてたけど。
今回の実習、大丈夫だろうか…
『もしかして、私の名前忘れちゃった?』
「い、いや!ちゃんと知ってる!!」
『うん、じゃあ呼んで?』
「う…」
悲しそうな顔をした一条さんに慌てて訂正すればけろりと笑って先を諭す彼女はやっぱりと言うか、くのいちだった。
このまま俺が名前を呼ばないままでは、今回の実習は乗り切れない。
一旦落ち着くために深呼吸して一条さんの目を真っ直ぐ見つめた。
可愛くて一瞬息止まったけど、覚悟を決めた俺は手を握りしめ口を開く。
「…藍、」
『なぁに?兵助』
…少し掠れた声に気付いたのか気付いてないのか、藍はそのまま優しい笑みを浮かべて首を傾げる。
うわ、これはヤバい。
幸せだ。
『うんうん、何か今いい感じだったね!』
「そうだね」
『後は夫婦らしい事って何かなぁ』
「…夫婦と恋人ってぱっと見は変わらないよな?」
『うん、そうだと思う!』
「それなら、」
町が近くなったらしい、ちらほらと見え始める人々の一部を指差して藍の視線を誘導させる。
さすがにこれを言葉で言うのは恥ずかしすぎた。
『恋人繋ぎ!!』
「って、言うんだ…」
『成る程ー!あ、でもあっちの方が夫婦っぽくないかな?』
「え、どれ?」
『こうするの!』
藍が言っているのがどの人なのか分からなくて視線を動かしていたら、自分の右腕に柔らかい感触。
一瞬叫びたくなったけど何とかそれを飲み込んで、ゆっくりその感触がする方へ視線を向ける。
「…うで、くみ?」
『うん!恋人繋ぎは確かに初々しいけど、今回の私達の課題は夫婦だからね。こっちにしてみましたー!』
「そ、そうだな」
柔らかい柔らかい柔らかい柔らかい
助けて勘右衛門ー!!
顔の筋肉を全開に稼働させて、思わず変な方向に走りそうな煩悩たちを思考の外へ叩き落とす。
これは、持つのか?
そらした視線の先の空に何故か褌一丁の三郎がニヤリと笑った気がした。
(何で褌一丁なんだよ)
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