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 雨がしとしとと降っていた。だから、おもむろに口を開いた。

「別れよっか」

 瞬間、梅雨の空気が凍りついたのを右半身で感じた。傘をささず足早に通り過ぎる人、ビニル傘を持ってゆうゆうと歩く人が視界の左側から右側へと、あるいは逆向きに流れていく。通りのスピーカーからは聞いたことのあるクラシック、でも曲名は知らない。それよりも私は心地よい雨音が鼓膜を揺らしている楽しさに集中しようとした。通行人の一人が訝しげな視線を私に送る。それでも、私は彼を見ようともしなかった。しゃがんだまま顔を正面に向けて、人々が横切るのを眺めていた。手持ち無沙汰になって、しっとりと濡れた髪を指に巻き付ける。

 沈黙してしばらくが経った。やはり彼は何も言わない。「ノー」という返事を私が受け入れないとわかっているからだろうか。雨もよそよそしく降り続けている。

「今までありがとう」

 業を煮やして先手を打てば、ようやく彼が「いや、」と口ごもった。つい(野暮ったいな)と思ってしまって、すぐに心の中で「ごめんね」と謝る。彼を嫌いになったわけではない。ただ、ひたすらに物足りなく感じてしまうだけだ。

「うん」

 彼の声色に決意を感じて、私は顔を上げた。下がった眉毛とつぶらな瞳、きれいではない肌、起きたままの髪の毛。どれにも愛着があふれていて、しかしながらそれはひとえに月日の経過によるものに過ぎない。一緒に居た時間が長かったからこそ、愛おしく思える。世間で情と呼ばれているものだ。

「わかった」

 彼の少し震えた声。私はもう一度、声を出さずに謝罪する。言葉にしてしまうのはあまりに卑怯だ。謝ったら、彼は言うだろう。「君が謝ることじゃないよ」いや、違う。そんな風に言ってほしいわけじゃない。許されたいとも思っていない。できれば、憎んでほしい。嫌いになってくれた方が楽だ。けれども――

 不意に周囲が明るくなった。自然と空を見上げると、空を厚く覆っていた雲の隙間から太陽が顔を見せていた。雨は依然として止まない。雨粒がきらきらと光り、眩しさに目を細める。通行人も上を向いていた。中には雨が降っているかを確認するために手のひらを空に向ける人もいた。すぐに青空が見えるようになる。灰色だった雲はいつの間にか入道雲を思わせる大きさになっていた。もう夏が来るのだな、と思った。無意識に髪を耳にかけようとして、私は急ブレーキをかける。

『きれいな耳してるよね』

 シャイ――そう言えば耳障り良く聞こえるけれど、単に意気地なしなだけだ――な彼が唯一私を褒めてくれた所。容姿や振る舞いにはほとんど物申さないくせに、彼はなぜか耳の形だけしきりに褒めた。だんだんとそれが疎ましくなっていった。あれやこれやと鼻につくようになり、終いには元々彼のような人はタイプじゃなかったことを思い出してしまったのだ。およそ一年という月日の間、すっかり忘れていたこと。そもそも私は彼を好きになったわけではなかったのだということ。付き合いだしたきっかけが、単なる好奇心だけだったこと。思い出してしまえば、魔法が解けたように途端にどうでもよくなった。だからといって共に過ごした半年とちょっとの日々まで消えてなくなるわけではない。彼が良く言えば繊細、飾らずに言うならばヘタレだと、私は知ってしまっている。むざむざと彼をフることは楽しい思い出――彼と過ごした時間は穏やかでくだらなくて幸せだった。それは嘘じゃない――を自ら汚すようで、そんな別れ方はしたくなかったのだ。彼もそういう空気を察知していたのだと思う。ここ二週間程、私たちはぎくしゃくしていた。彼はいつにも増して私の機嫌を伺い、しかしその気遣いはかえって私を苛立たせた。わがままと幸せに揺さぶられ、しばし葛藤した。そして、結論に至ったのだ。雨が降ったら、言おう。

 天気雨は次第に勢いをなくしていった。彼が何か言いたそうにしているけれど、知らんぷりをした。深呼吸をしたら、雨のにおいにむせそうになった。鼻がツンとしたのを悟られたくなくてすっくと立ち上がり、その勢いのまま一歩踏み出す。雨粒が頭に頬に落ちる。

「ばいばい」

 振り向かずに、私。

「さよなら」

 背中にぶつかる重たい言葉から一呼吸置いて、私は歩き出した。両方の足を交互に出すことだけに全神経を集中させる。右、左、右、左、イチ、ニ、イチ、ニ――交差点でやむなく足を止めた。今振り返れば、同じ場所に彼を見つけることができると確信していた。走って戻れば、元通りになれることも。

 突如、強く風が吹いた。少し濡れた髪が空に煽られる。その風に連れていかれたみたいに、雨があっけなく止んだ。「ああ、こういうものなんだ」と私は思った。



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160720
ほとんど一年ぶりの文字書き。
t7sの歌詞からイメージして。すごく好きな曲です。
ちょいちょい書いていかないと書く力は衰える一方ですね…






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