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アラサー荒北
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 歳をとると、若い頃身を任せていた勢いのようなものがなくなる。頭が欲望を先行して後先を考えて、結局行動に至らないことが増えた。要するに、俺は臆病になったのかもしれない。三十歳を間近にして、また恋に落ちるなんて思わなかった。このまま一生独りでもいいかもね、なんて拗ねた考えの隣で芽生えた気持ちが確かに成長していることに気が付いた、午後十時五十三分。遠慮知らずの横浜の海風は今日も相変わらずだ。向こうに見える観覧車は飽きることなく自身の色を変え、恋人たちに相応しい雰囲気を演出している。カラフルな光をバックに道すがらすれ違う他のカップルたちは楽しそうに腕を組んだり、はたまたキスをしたり、喧嘩をしていたり――自分の恋愛遍歴を見せられている気分になった。

「荒北さんは、」

 少し散歩したいと提案したのは彼女の方だ。まだ駆け引きも知らない若さが俺には眩しい。そして、いたく懐かしい。隠しているつもりなのかもしれないが、見え見えの好意を向けられるのは久しぶりで、心躍らずにはいられなかった。元からかわいい子だとは思っていたけれど、自分を好いてくれていると頭につくのならば尚のことそう感じる。

「……なァに」

 呼んだきり彼女が黙ってしまったので先を促すと、「いえ」と短く答えられる。何を言おうとしたかまではわからないが、話題を変えられてしまったことはなんとなく察した。

「今日楽しかったです。ありがとうございました」
「そいつぁよかった」
「また誘ってください……っていうか、私から誘うかも」

 引き返すならここだ。まだなかったことにできる。心の中で警報が鳴り響く。今一度彼女を見ると、照れくさそうに笑っていた。当然目が合う。「風、強いですね」「そぉだね」そしてまた沈黙。おそらく彼女の方は居心地の悪さを感じており、本来なら俺が何か気の利いた話を振るべきなのだろう。しかし口下手ゆえに、この歳になってもそういうことは苦手だった。相変わらず警報が心をうるさくしている。進むのか戻るのか、はっきりしろと急かしているようだ。例えば、彼女と同じ二十三歳の俺ならば、迷わず進んだと思う。もしくは今ほど追いつめられていない二十六歳の俺なら、考えた末に戻ったと思う。そして、勢いもなければ余裕もない二十九歳の俺は。

「今度も俺が誘うよ」

 「はい」と嬉しそうに答えた彼女の指先は冷えていた。俺の手の甲がそれに熱を分け与える。この行動をいつか彼女が残酷だと責めるのかもしれない。けれどもその程度の批難ならかわすことができるだろう。

 警報は音量が小さくなっただけで止まなかった。俺は我ながら卑怯な大人になったモンだと思った。



手だけつないで






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