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 私は彼が好きで、彼は彼女が好きで、彼女は――


 感情は他人と比較できるものではない。例えば幸せとか、はたまた悲しみとか。だから他に好きな人がいる男を愛した私の辛さと両思いなのに気持ちに応えてもらえない彼のやるせなさについて、どっちがなんて言うことは誰にも許されていない。ただ人間とは自分がいちばんかわいい生き物だ。だから皆自分が一番切なくて大変だと言い張ってしまうのだ。それが正しいと言うと語弊があるけれど、人生の主人公は自分なのだから、少なくとも間違ってはいない。

 でも、私はいつでも脇役。舞台袖の近くでヒロインの彼女をうらめしそうに見つめる女A。彼女は一人でオーケストラ、だけど私は。



「ナマエさん、」


 隼人の声で現実に引き戻された。目の前には彼とその想い人が不思議そうに私の顔を覗きこんでいる。隣同士がしっくりくるのに、いまだ付き合う予定のないこの二人が私の悩みの種だ。

「送ってくよ」

 いつの間にか彼女のマンションの下まで歩いてきていた。およそ十五分間、ぼんやりと二人の背中を眺めていたらしい。隼人にお礼を言ってから早く帰りたいと顔に書いてある彼女に声をかける。

「今日は楽しかった。またね」
「わたしも。じゃあまた」

 「新開くんもじゃあね」とそっけなく言うやいなや、彼女は踵を返しマンションに吸い込まれていった。部屋でピアノを弾くつもりなのだろう。彼女の頭の中は基本的にピアノのことでいっぱいだ。


「行こうか」

 隼人が手を差し出す。その卑怯な左手を私は拒むことができない。彼女の前では絶対にこんなことしないくせに、と心の中でだけ密かに責めては渦巻く嫉妬心を抑えている。私の前ではよく喋る彼の話題の新鮮さを楽しみながらも黙ってほしいと半心では思っている。そうしたからと言って二人の間に流れる心地よい沈黙が味わえるわけではないのだけれど。


「明日はお昼からだっけ?」

 分かっていることをわざわざ確認するのはつまらない虚栄心に由来している。「そうだな」という答えは予想通りだ。彼の時間割はとっくに把握している。

「なァ、泊まっていってもいいだろ?」

 断られることなど露ほども考えていない余裕たっぷりのほほ笑みはかっこよくて憎らしい。もちろん意地悪でもノーと言う度胸を私は持ち合わせていない。都合のいい女、それでもいい。彼が好きだ。



   *



 朝方目が覚めたら、眼前に下着姿の彼が眠っていた。このときばかりは私も主役になれる気がする。柔らかな茶髪を撫でても、彼は起きない。眠りの深い彼はどんな夢を見ているのだろう。女Aの夢でないことは確かだ。


 日が昇ってきた。彼はまだ起きない。スポットライトの光は日陰者の私には少し眩しくて目をそらす。幸せそうな彼の表情を見ればどんな夢を見ているかなんて。


 彼を好きでいる限り、役名は女Aのまま。




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