log | ナノ


 チョコレート、すき。
 自転車、というかロードバイク、すき。
 ヒソヒソ話、きらい、それをする人も。
 ママン、大きらい。

 ピアノ、愛してる。愛されたい。たまに、きらい。




「ちょっとぉ、聞いてんの!?」

 金切り声、大きらい。

 髪の毛が逆立ちそうなくらいの怒気がびしびしと伝わってくる。目を吊り上げて、口を裂けさせて、せっかくそこそこかわいいだろう顔が台無し。頬に塗りたくられているチークもよくない。ああいうのを「おてもやん」っていうんだって、前にナナちゃんが言っていたっけ。もっと言えば、そもそも色味が肌に合っていない。化粧とは好きな色を選べばいいってものじゃないらしい。周りの美意識が底抜けに高い人たちに聞かされて、知るだけ知っている。私は美容にあまり興味がない。そこからわずかに目線を上げたところに揺れるまつげ。ここまでの至近距離ならば、先端で弧を描いているそれがつけまつげだとわかる。シャドウのラメが頬に落ちている。涙袋がうっすらと黒味を帯びている。こういうのを見ると「ああ、一日が終わる」と少々感慨深くなってしまう。

「シカトかよ、ふざけんな!」

 化粧、どっちかって言われれば、きらい。

 とうとう腕を掴まれて、私はようやくこの状況について考え出した。愛憎劇は世界共通。でも、自分がキャストに選ばれていることは知らなかった。私は少々世間に疎いのだそうだ。改めてもいいのかもしれないと初めて思った。なぜならば、私の手首の少し上を掴むこの手――オレンジとベージュの拙いフレンチネイルが施されている――が非常にうざったいからだ。

「…なによ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ」

 怒った女の顔は醜い。笑う門には福来る。

「離して」
「離さない。隼人くんと別れるって言うまでは、離さないから」
「…そもそも、付き合ってない」
「ウソ!だって、私、知ってるもん」

 面倒事、きらい。
 それの元凶、新開くん、きらい。

「隼人くんの好きな人ってアンタなんでしょ?今日も隼人くん来るんでしょ?ずるい、ずるいよ!なんでアンタばっかり!」

 涙、きらい。

 襟首を乱暴に捕まれる。彼女の方がだいぶ背が低いため、下に引っ張られる形だ。力はあまり強くないので、苦しくはない。むしろ、苦しんでいるのは彼女の方だ。透明な涙を見るに、マスカラはウォータープルーフのようだ。

「隼人くんはみんなのものなの!あなたのものじゃないの!」

 みんなのもの、私のもの。言われたことを心で復唱してみるけれど、全くピンとこない。そんなことより、今何時だろう。風除室に入るためのドアにはデザインとして小さな曇りガラスがいくつかついている。それ越しに見ても暗くなっているのがわかるから、おそらく三十分近くここで彼女に拘束されている。最初は彼女もここまで興奮していなかった。私の発言のどれかが逆鱗に触れたのだろうが、それがどれなのか人情を解せぬ私にはわからない。マンションのエントランスでこんな修羅場を繰り広げているところを住人に見られでもすれば、管理会社に通報されてしまうのだろうか。幸いなことに、まだ誰もその扉を開けない。

「…お願いだから、独り占めしないで」

 狭い風除室の床に突然ぶつかった、悲痛なつぶやき。彼女の腕がだらりと下がる。とうとう懇願されてしまった。そう迫られても、私にはどうすることもできない。彼女の涙がぽたぽたと床を濡らす。なんだか、可哀想になってしまった。新開くんのためにおしゃれをする彼女が。

 そのとき、唐突にドアが開いた。助かったと思ったけれど、見知らぬ男性だった。立ち止まってしまった男性は私と彼女とをちらりと確認してから、軽く会釈して横を通り過ぎた。しばらく集合玄関機の前であちこちのポケットを探っていたが、ズボンから鍵を見つけ出すと、それを刺して自動ドアを開けた。立ち去る前にまた私と彼女を見ていた。ぐずぐずと鼻を鳴らして、頭を垂れて泣く彼女とそれを見下ろすだけの私。どう見ても、私が悪者。別に、かまわないけど。

 引き留められているわけでもないので、私も部屋に戻ってしまおうかと一歩踏み出せば、やはり腕を掴まれてしまった。

「待って。別れるって言って」

 顔がぐしゃぐしゃになっている。目をこすったせいで、つけまつげが浮いている。アイシャドウが流れている。その中で、依然としてピンク色のチークだけが浮いている。

「私が、そう言えば、満足?」

 初めて、彼女が黙った。推定三十分間、私たちは一切会話をしていない。

「新開くんは私を好きかもしれないけど、私はそうじゃない。私はピアノを愛してる」
「はぁ?なに言ってるの?」
「嘘だと思うなら、新開くんに訊いてみたら」

 曇りガラス越しに黒い服。赤いラインがぼやっとにじんでいる。計ったかのようなタイミングだ。ドアが開かれると、風が入ってきて、髪の毛が舞う。

「その人の話、聞いてあげて」

 今度こそ、新開くんだった。私と彼女を見るなり、驚きの声。無理もない。流石の彼にとっても予想外の出来事だろうから。私もここに入ったとき、待ち構えていた彼女に話しかけられて、うろたえた。

「隼人くん、違うの、私」
「えっ、いや、これ、どういう――」
「いいから」

 珍しく狼狽の色を見せる新開くんに彼女を押し付けてしまおうと決めていた。今日は約束していたから私は待っているだけでよかったのだ。集合玄関機に歩み寄る。彼女は新開くんによくわからない弁明をするのに必死で、私を止めない。鍵を出して刺せば、当然だが自動ドアが開いた。

「待ってよ、あなたにも――」

 そこでようやく私が去ろうとしていることに気付いた彼女が先程よりも幾分柔らかい口調で私を制する。

「ピアノ、弾かないと」

 しかしながら、私にそんな暇はないのだ。すでに随分な時間を浪費している。

「行こう。聞くよ、話」
「でも、あの人が」
「彼女は関係ねぇんだ。な、行こう」

 新開くんがほとんど抱き締めるように、彼女の背中に手を置いた。私が言うのもなんだけれども、彼もまた人情を解していないと思う。しかし、そんなことはもはやどうでもいいことだ。私は一秒でも早くピアノを弾きたい。エレベーターのボタンを押す。扉が開く。乗り込んで、またボタンを押す。前を向く。新開くんと目が合った。



 ショパン、すき。
 モーツアルト、すき。
 ドビュッシー、大すき。
 シューベルト、それなり。
 リスト、あんまり。
 ラフマニノフ、すき。

 新開くんの困った顔、わりとすき。



 そして、エレベーターの扉が閉まる。




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