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 三が日を究極にだらだらと過ごした私は実家の快適さを十二分に堪能していた。中でも家に帰ったらご飯が用意されている幸福は実家ならではである。上げ膳据え膳がこんなにも素敵だなんて忘れていた。たまにしか帰ってこない私に家族は優しくしてくれるし、やっぱり我が家は温かくっていい。成人式まであと五日、大学はすでに始まっていたが、せっかくだから成人式まで実家に居続けることにした。往復の新幹線代がもったいないからと理由付けたわりに、結局浮いたお金で新しい靴を買ってしまったのだけれど。


 毎日友達と遊ぶわけでもなく、特に年が明けてから私は時間を持て余していた。日中お父さんは当然仕事だし、お母さんも午後からパートに出ているので家には誰もいない。大掃除で発掘したアルバムや昔好きだった漫画は見尽くしてしまったので、今日は暇つぶしに出かけることにした。かわいさよりも温かさを重視した服装に着替えてから、化粧をするために洗面所の鏡台の前に立つと、そこには高校のときとさほど変わらない私がいた。

――あかねは変わんないなぁ。

 自分が変わり果ててしまったことを重々自覚しているゆっこにそう言われたことを思い出して、確かにそうだと納得した。茶髪になったり化粧が濃くなったりと少々の変化はあるものの、高校の頃、下手すると中学時代から代わり映えしない高宮あかねという人物をまじまじと見つめる。中身はどうだろう。みんなも内心では「あかねは変わった」と感じていたのだろうか。


 新しい靴は奮発した甲斐あって見た目はもちろんのこと、履き心地も良好だった。私が歩くたびにヒールの軽やかな音がして、気持ちまで上向きになっていく。私はヒールの高い靴が大好きだ。身長百六十二センチの私は今、裸足より十センチ高い目線を楽しんでいる。初売りで買った黒のブーティは本革でシンプルなデザインだが、ヒール部分がヒョウ柄になっているのがアクセントでとても可愛い。ヒールの高い靴にターゲットを絞っていた私はそれに一目惚れしてしまい、予算オーバーに目をつぶって買ってしまった。大阪に戻ったら節約生活が待っている。

 雑貨屋を冷やかして、CDショップをぐるりと一周した後に、本屋に来た。とりあえず雑誌コーナーで愛読書を一通り立ち読みしてから、行く当てもなく本屋を端から歩き出した。文庫本の棚に差し掛かったところで、ある本を猛烈に勧められたことがフラッシ
ュバックした。

――読んだことないん?人生損しとるわ、絶対読んだ方がええよ。

 確かあれは大企業の社長が書いた自己啓発本で、結構な話題になったため、それほど大きくないこの町の書店でも取り扱っているに違いない。ただあんなに熱心に勧められたというのに題名がいまいち思い出せなかった。確か、ナントカとカントカの法則。実物を見れば思い出すだろうと楽観的に考えた私はとりあえず自己啓発本の棚を目指してヒールを鳴らした。ここの床とは相性がいい。

 雑誌コーナーの脇を通り過ぎようとしたとき、見覚えのある横顔に私は足の速度を落とした。
 ええと、誰だっけ。ここにいるってことは同じ中学の人なんだけど。誰かの正体が分からずにすっきりしないまま彼の後ろを通り過ぎようとしたまさにそのとき、彼が読んでいる雑誌の写真が目に飛び込んできた。

「東堂」

 思わずついて出た彼の名前、そうだ彼は東堂尽八だ。彼の読んでいた自転車の雑誌を見て中学の記憶―彼が自転車のレースで優勝したとき皆に、主に女子に騒がれていた―が蘇った。それほど大きな声ではなかったのに彼の隣にいた女性が私を一瞥し、東堂の袖を引っ張ってから再び私を見た。誘導されて私を振り返った東堂は記憶のままで、しかし当然だが大人びていた。彼も同じことを思っているかもしれない。いや、もしかしたら私のことなど思えていないかもしれない。急にいたたまれなくなり、暇だからとて本屋に来たことを後悔し始めた。

「おお、高宮ではないか。久しぶりだな」

 何秒間か記憶をたどっていたであろう東堂は私の名字と無事に出会えたようで、私は安堵した。「久しぶり」と返してみたものの、次に何を話せばいいのか全く思いつかない残念な頭脳は空回りするばかりで、話題を絞り出せないでいた。

「中学卒業ぶりだから五年ぶりくらいか。今何してる?学生か?」

 私は関西の大学に通っていることといまだに関西弁になれないことを簡単に説明して、同じ質問を東堂に投げかけた。東堂も学生で、なんと恐ろしいことに東京の大学に通っているらしい。それから東堂が主体でしばらく会話のキャッチボールが成立した。その間東堂の隣で女性は口を挟むことなく私たちの話を聞いていた。つば付きのニット帽のせいで顔がよく見えなかったが、覗き込むわけにもいかない。話題は東堂に任せて頭の半分は彼女への好奇心で占領されていた。知っているあの子のような気がするけど顔がよく見えないので自信が持てず、なかなか言い出せないでいると東堂が急に彼女に話をふった。

「ほら、アンジュも何か話さないか」

 思った通り、私の予想は正しかった。

「やっぱりシーナちゃんだったんだ。久しぶりだね、成人式で里帰り?」

 大して仲がよかったわけでもないのに思ったよりフレンドリーに話しかけてしまって、すぐに後悔した。彼女は寡黙な性格で、馴れ馴れしくされるのが嫌いそうな子だったのだ。現に彼女とは中学一年のとき同じクラスだったが、ほとんど喋ったことがない。それにもかかわらず私が彼女を知っていて、しかも今も覚えているのは彼女がハーフだかクォーターだかとにかく外国の血が混ざっている美少女だからだ。皆シーナちゃんと呼んでいて、本名は椎名杏樹。男女問わず彼女に憧れている者が多く、私もその口だが、近寄りがたい雰囲気をいつもまとっていた彼女は友達がとても少なかった。

「うん」

 シーナちゃんはそれだけ答えて、また口をつぐんだ。ああ、失敗した。けれど、答えてもらえただけよかったと思うことにしよう。

「久しぶりに会った地元の友人だぜ。もう少し愛想よくできんのかね」

 東堂が呆れた様子でシーナちゃんのニット帽を脱がせると、彼女の印象的な瞳が露わになった。ぐっと大人びた彼女は相変わらず人目を引く美人だった。シーナちゃんはばつが悪そうに私を見た。きっと私を覚えていないに違いない。

「去年から、日本に、帰って来てて、ハチと同じ大学に行ってるんだけど。今は成人式だから、里帰り」

 ぶつぶつと区切りつつ、シーナちゃんが言った。ハチというのは東堂尽八の「ハチ」である。どうやら東堂の言葉に従って、私に近況を話してくれたようだ。私は慌てて相槌を打った。

「そうなんだ、日本に帰って来てたんだね」
「そう」

 あちらから話しかけてもらえるなんてあまりに予想外で私はそれ以上会話を膨らませることができなかった。シーナちゃんは元来口下手だ。そもそも誰か分からない同級生と急に話すなどできないと言わんばかりに東堂をじとりと睨んだ。東堂はふっと笑ってから、シーナちゃんがピアニストになったことを私に説明した。なんでもフランスの有名な音楽の学校で、一流の先生に習って、優秀な成績を修めた彼女は学業の合間にピアニストとして仕事をしているらしい。そういえば彼女は中学の合唱コンクールではいつも伴奏をしていた気がする。一通りの説明を聞いた私が目を輝かせていると、「大げさ」と無表情にシーナちゃんが呟いた。

「大げさなもんか。そうだ、高宮。アンジュのCDが出た暁にはぜひ買ってくれたまえよ!」
「うんうん!買うよ、絶対」

 同級生からピアニストが出るなんて思わなかったなぁ、しかもまだ二十歳なのに。こんなにきれいで、さらにピアノのプロだなんて、崇拝度がうなぎ上りである。ピアノを弾くだけで絵になるだろうからきっとマスコミが黙っちゃいない。美人過ぎるピアニストとして紹介されるシーナちゃんを思い浮かべて、一人で納得した。天は彼女二物を与えている。神様に愛されている証拠だ。

 そしてその上こんなにかっこいい彼氏までいる。東堂は学年一モテていた。彼は美形を自称していたが、実際に端正な顔立ちをしており、その明朗闊達な性格ゆえに小・中学校を通して人気者だった。特別仲が良かったわけでもない私の名前を覚えていてくれたり、その私に気を遣ってか自分からいろいろと喋ってくれたりしているところを見ると、彼は今でも人気者でモテまくっているのだろうと容易く推測できる。美男美女のカップル、なんとお似合いだろう。

「じゃあ、また成人式でね」

 二人のデートの邪魔をしたくない。私はナントカカントカの法則は買わずに本屋を出ることにした。二人は「ああ、またな!」「うん」とそれぞれ別れの言葉を述べると、東堂はシーナちゃんに無理やり脱がせたニット帽を被らせた。彼女の長い前髪を愛おしそうに整える東堂の手つきに私は思わず見惚れて、息を漏らした。

 変わらないな、この二人は。

 中学一年のとき私は二人と同じクラスで、こんな風に寄り添うのを幾度となく見てきたのを思い出した。今まで忘れていたことが不思議なくらい鮮明に幼い二人がじゃれあう姿が脳裏に蘇った。私は嬉しくて、コツコツと大好きな音をたてて退場した。スキップで帰りたかったが、ヒールが滑って大惨事になるのを恐れた私は鼻歌で代用してご機嫌の帰り道の中、歩みでリズムをとった。




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