log | ナノ


 ずっと憧れていた一人暮らしは案外わびしいものだった。最初こそ部屋を散らかそうが遅くに帰宅しようが誰にも文句を言われない底抜けの自由と一人で家事をこなし家計をやりくりするおぼつかない自立に喜んでいた私だったが、それにもとうとう飽きてしまった。孤独、不便、面倒。一人暮らしのデメリットはメリットの数だけ存在する。

 ベッドから起き上がらなくても手が届く範囲に携帯、水、栄養ゼリー、それから薬と体温計を置いて、私は枕に頭を落とした。薬のおかげで楽に寝られそうだ。日中は寒気がひどかったが、今は冬だというのに体が熱い。これは薬が効いている証拠で今から熱が下がるに違いない。
 窓の外から聞こえたバイクの音が耳に障る。室内はひどく静かなため遠ざかるそれがいつまでも聞こえて布団に潜り込んだ。まぶたを閉じてぼんやりと思い浮かんだのは家族のことだった。お母さんの作ったおじやが食べたい。風邪をひいたら我が家ではおじやが定番で、卵でとじた薄味のそれが無性に恋しくなった。病は気からというけれど逆も然り、心身共に弱った私は自分が妙にみじめに思えてきた。

 寝よう。ともかく今は何も考えずに寝てしまおう。私は広がっていく思考の煙をシャッターで遮って、自分が暗闇にとけていくのをイメージした。
――こうすれば、すぐに寝られるよ。
 遠のく意識の中で覚えのある台詞が聞こえた。



   *



 夏ぶりに帰ってきたのだからバス停までの一キロを歩いていくことにした。今日はいい天気だし、絶好の散歩日和だ。我が地元箱根では、冬の天気の良い日には雪化粧の富士山を見ることができる。幼いころからそれが普通だったわけだが、一度地元を離れてみると久しぶりに見る富士山はなんだか有難くて、観光客がこぞって拝みたがる気持ちを人生二十年目でやっと理解した。大阪の雑多な街並みは田舎育ちの私にはいささか窮屈で、終わりが見えない青空の下で澄んだ空気を生み出す山の木々が私の心を解放するような錯覚すら覚えた。そうなってくるとしんと冷えた空気も心地よい。ああ、帰ってきてよかった。
 急に寒くなったからか風邪をひいた私は二日の闘病生活を終え、帰省した。新幹線に乗ることはもはや無感動になってしまい、車内では寝て過ごすようになっていて今回もそうだった。大学一年の夏に帰省したとき、初めて一人で乗る新幹線にウキウキそわそわした私は一体どこに行ってしまったのだろう。人間誰しも慣れという現象からは逃げられないのだろうけれども、自分がこういう風に鈍くなっていくビジョンは思い描いていなかった。これが大人になるということなら少しさみしい。



 久しぶりに再会した高校の友人たちは口々に輝かしいキャンパスライフを語った。サークルが云々、先輩が云々、彼氏が云々。専門教科の話は当然ながら全く出なかった。女子高に通っていた私たちも大学生になればそれなりに彼氏ができ、話のメインはほとんどコイバナだったわけだが、友人の一人えっちゃんの話には特に驚かされた。

 えっちゃんは仲良し四人グループの中では一番成績がよくて、東京の名の知れた私立大学に通っている。小田原から毎日一時間半かけて通学していると思っていた彼女は夏頃から彼氏と半同棲しているらしく「実は私も実家に帰るの久しぶりなんだよね」と大人ぶって言った。他の二人が驚愕の悲鳴をあげた中、私は逆に言葉を飲みこみ、目を丸くさせるので精一杯だった。

 まさか、えっちゃんが。

 えっちゃんは頭がよくて、優しくて、なんというかふんわりしている大人しい女の子だった。高校のときも「彼氏欲しい」という言葉を挨拶にしていた私たちと違って、「いつかいい人に出会えたらいいなあ」なんてかわいらしいことを言っていたのだ。そんなえっちゃんが、化粧だって学校のない日しかしていなかったえっちゃんが彼氏と半同棲。半同棲というところがまた引っかかるところで、きちんと同棲しているわけではなく、えっちゃんが一人暮らしの彼氏のところに転がり込んでいるそうだ。

「親はなんにも言わないの?」
「最初はうるさく言ってきたけど、最近はもう、ね。言っても無駄って分かったんじゃない」

 コーヒーは苦くてあまり好きじゃないからと食後はいつも紅茶だったえっちゃんはブラックコーヒーをすすった。二重幅には色濃く茶色いアイシャドウ、まぶたには控えめながらもつけまつげ、頬にはピンクのチーク、えっちゃんはきれいになった。




 帰り道のバスの中で、私と美香は飽きずにえっちゃんの話題で盛り上がっていた。
「やっぱ東京は怖いなー、あかねは大阪に毒されないでよ」
「毒されるかっつーの」

 そうは言いながらも都会は怖いという点は大いに同感だった。あんなに清純だったえっちゃんに赤い口紅をひかせた街。私も気をつけなければ、大阪で私を守れるのは私だけなのだから。

「やっぱ卒業して二年もたてば変わるよねえ。ゆっこも髪の毛すごかったし」
「そうだね、正直あの色はないわ」
「ゆっこ、ああいうの嫌いだと思ってたのに」
「私もそう思ってた」

 ゆっこは頭頂部が黒、毛先十センチはオレンジという衝撃の色に染髪していた。オレンジ風味の茶髪ではなく、完全なるオレンジ色だ。ずっと伸ばしていた髪も肩の上で無造作に跳ねており、ついでに言えば服装もかなり派手だった。大学から始めたというバンドの影響でゆっこは会う毎に奇天烈さを増長させていき、私たちを驚かせた。高校時代は左右の耳に一つずつだったピアスも今では合計七個になっており、さらに「今口ピ開けようか迷ってんだよね」と言い出したものだから全員で反対して止めた。でも止めたところで、次にゆっこに会ったときには「あーあ、やっぱり」と思うことになる気がした。

「みんな変わってくね」

 私の感傷的な呟きを美香は笑い飛ばした。
「当たり前じゃん。もう大人だよ、うちら。ハタチだもん」
 私たちは成人式を二週間後に控えている。ハタチは大人だって、私も今までずっと思っていたけど、自分がいざなってしまうとハタチは実に子供だった。飲酒喫煙を公に許可されたこと以外、ティーンエイジャーだった頃と何も変わっちゃいない。それとも私は今、斜度のほとんどない緩やかな坂を進んでいて、はっと気付いたときには周りの景色が変わっているのだろうか。どこかで立ち止まるたびにこんなさみしい思いをしなければならないというなら、私は大人になんかなりたくない。

 美香が愚痴とものろけともとれる彼氏の話を嬉々と語るのを右耳だけで聞きながらそんなことを考えていた。その彼氏はどこの人だっけ?同じサークルの先輩は今の人それとも前の人?前の前が合コンで知り合った最低男っていうのは覚えているんだけど。そう言いたいのを堪えて、大変だねえなんて笑って相槌を打った。




prev | next