log | ナノ



 忙しい忙しいとしきりに言っていたくせに「今週の土曜日会える?」と急に聞いてきたときから違和感はあった。その前は「次はいつ休みが取れるか、分かんないなぁ」とかなんとか言っていたわりに、「次」はわりとすぐに訪れた。会うのはひと月ぶりだ。

 駅で彼女を一目見たときに服装が様変わりしているのに気付き、触れるべきか迷った末見て見ぬふりをした。具合のいい褒め言葉が思いつかなかったのだから仕方がない。それにどうせ褒めたところで「靖友が褒めるなんて、なんかあった?」なんて憎まれ口を叩かれるのが関の山だ。ただ、あまりにも雰囲気が変わっていたのが気がかりだった。そしてレストランのテーブルで財布を出したときにいつの間にか財布を新調していたのを、その爪に薄ピンク色のマニキュアが塗られているのを見て、違和感は確信に変わった。


「別れよう」

 あのね、今日来たのは話があって。こういうことはやっぱり直接言うべきだと思ったから。そう前置いて、ナマエが本題に入った。予想通りの言葉に心の準備はできていたといえども心臓が運動しているかのように脈打っている。理由が思い当るようで、分からない。いつもの座布団に座っているはずのナマエがひどく遠くに感じた。オレがデスクで、ナマエは床に座布団というのがオレたちの定位置で、一メートル強の空間が百メートルにも一キロにも思えた。ナマエはオレから目を逸らさなかった。オレから逸らせば負けたみたいで嫌だったからしばらく睨み返していたけれど、ナマエが困ったように笑ったので止めた。こんな物憂げな表情は見慣れなかった。いつもなら通りの車の音や隣の住人の笑い声や廊下から聞こえる足音や、とにかく何かしらうるさかったが、なぜだか静まり返っていた。つけっぱなしのパソコンの起動音だけが唯一の音だった。ナマエはおそらくオレの返事を待っている。オレを切り捨てる呆れた視線を投げかけて、「分かった」という言葉を期待している。

 それなりに長く付き合ったが、ナマエから別れを切り出したのは初めてだった。別れを請うのはいつもオレの方だったのに、なんでまた――いや、理由はなんとなく分かっている。二人とも遠距離恋愛を舐めていたのだ。そして社会人と学生の隔たりは想像よりも随分と大きかった。価値観の相違で別れるカップルは多いそうだが、まさか自分たちもその仲間に入るだなんて去年のオレたちは予想だにしなかった。ナマエに直接言ったことは一度もなかったけれど、とても気の合う二人だと心の裡では思っていたのだ。こういうことを口に出していれば違った結果があったのだろうか。今からでも遅くはないのだろうか。これまでナマエは別れようというオレの提案を何度も却下してきた。お願いだから別れないでと泣いてすがる様を見て、密かに征服欲を満たしていたのをコイツは知らないはずだ。あれを見る度に愛されている実感が湧いていた。ひねくれていることなどとうに承知の上だ。

 何も答えないオレに業を煮やしてナマエが小さな声で呟いた。

「今まで、ありがとう」

 鼻に左手を当ててすんと軽く吸っている。泣くぐらいなら別れ話してンじゃねーよ。そんな軽口を叩ける空気ではないので黙って見守る。今まで対峙したことのない事態に慌てふためいていたが、その反面では変に落ち着いていた。結婚しようといつも言っていたナマエ――でもオレはいつかこんな日が来るんじゃないかと予感していた。オレの暴虐さに呆れ果てて、ナマエがオレを捨てる日が。


「靖友は、私なんかじゃなくて、靖友とお似合いの誰かと幸せになって」

 言葉が刺さる。これは拒絶だ。私はアンタとじゃあ幸せになれないから、さようなら。そういう意味合いの、文字通りの殺し文句だ。

「…アア、分かった」

 いつもいつも心の声とは真逆の言葉が口からこぼれていく。そういうときは自分の声が別の誰かのもののように聞こえるのだ。しんとした部屋に誰かの声がいやに大きく響いた。ナマエはこちらに向けていた顔を下げ、目頭を押さえた。かばんを引き寄せ薄い水色のハンカチで目元を拭う。まるで別人だった。

「靖友なら、そう言うと思った」

 涙交じりの声でナマエが皮肉ってから立ち上った。かばんを手に取ったかと思えばすぐに元の場所に戻して、オレに歩み寄る。ヤメロ、こっち来んな。声が出なかった。ナマエが目を合わせようとしていると気配で察し、顔を大げさに逸らしたが、ナマエはかまうことなく椅子に座るオレに柔らかく抱きついた。嗅げば落ち着く匂いのはずなのに動悸が苦しくなる。それを分かっていないナマエが少しだけ力を込めた。ナマエの背中に手を回すのは嫌だった。自分の都合で別れ話し始めたくせに泣いたり抱きついたり、相変わらず勝手な女だ。オレはおめーに振り回されてばっかだったヨ。


「ありがとう、元気でね。身体、気を付けてね」

 …おまえもな。

「勉強、大変と思うけど、頑張って」

 アリガトね。

「私、靖友のこと、ホントに好きだったよ」

 知ってんよ。オレだって、好きだ。

「すごい、楽しかったし、幸せだった」

 分かってる。分かってるから、泣くな。

「…最後くらいなんとか言ってよぉ!」

 っせ!耳元で叫ぶな。なんも、言えることねーだろ。もう決めてんだろーが。


「…さっさと帰れ」

 ナマエの匂いがゆっくりと離れていく。今度こそかばんを手に取って、ドアの前で振り返った。

「私、靖友のそういうところ、嫌いだった」

 ぱたり、と静かに部屋へのドアが閉まり、遠くの方でかすかに玄関のドアが閉まる音がした。ナマエの最後の反撃は思ったよりも深く深く刺さった。冷え切った涙目はもうオレに笑いかけることはないのだろう。ナマエはオレの人生から出て行ってしまった。オレが本心を語らぬばっかりに最愛の彼女を失ってしまったのだ。


「アー、せっかくの休みだってのにナァ…」

 嫌な予感はしていた。けれどそんなものは単なる杞憂で、「さみしかったから会いに来ちゃった」と無邪気に笑ってオレに飛びつくんじゃないかと期待していた。意味の違う抱擁、取り残された日曜日――みじめだ。オレはぼうっと椅子に座ったまま、ナマエとの五年間を走馬灯のように思い出していた。出会い、惹かれ、繋がり、そして切れた。ヘッドボードに置かれたぬいぐるみがあざ笑っている。耐えきれず立ち上がり、それの頭をわしづかみにして、投げ捨てようと窓を開けたところでナマエの存在に気付いた。このぬいぐるみはアイツと二人でゲーセンに行ったときにねだられて獲ったものだった。ベッドに乱暴に投げて振り返ると、クッションに、壁にかかった黒いジャケットにナマエがいる。どこかしこにアイツの亡霊が居て、オレを蔑んだ目で睨んでくる。


 全部捨ててしまえればいい。この部屋にある物全て、オレ自身さえも――

 いらない、何も。アイツを探すオレも、見つけて傷つくオレも、全部、全部、全部。




prev | next