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 金曜日、六限目、南棟二階の三組。窓際の列一番後ろの特等席からウサ子は今日も俺を見ていた。


   *


 最初は単に景色を眺めているだけだと思っていた。南棟の教室からだと窓側になれば外の風景を楽しむことができる。けれどウサ子の目線は風景というよりもグラウンドに注がれているのが、彼女の顔の角度から分かった。それでも俺は「嫌いな科目の授業を聞くぐらいなら男子がサッカーしているのを見ていたほうがずっとマシ」程度にしか思っていなかった。


 いつだったか、目が合ったのですぐにそらした。それから何度か目が合うようになった。あまりにも目が合うので俺からはそらすまいとウサ子を見上げると、ウサ子も負けじとまっすぐに俺を見ていた。

 もしかして、こいつ、俺を見てんのか。

 その疑念のもとウサ子を観察すると予想通りウサ子は授業の合間にグラウンドの俺を見ているようだった。グラウンドに顔を向けているときには必ずと言っていいくらい目が合う。それに気付いてしまえば後頭部にちくりちくりと刺さる視線が痛かった。ビームでも出そうな力強い双眸とその下で一文字に結ばれた口。

 もうちょっといい顔できねーのかヨ。

 ウサ子はいつも気難しそうな表情をしていた。

 

 ウサ子と勝手に呼んでいるが、本名は知らない。そもそも同じ学年にああいう顔の女子がいることすら知らなかった。ウサ子のあだ名の由来はいたって単純で、彼女がウサギに似ているからだ。小動物を連想させる黒目がちな目と口角が下がった小さな口。さらにたまたまあくびしているのを見かけたとき出っ歯なのを知って、思った。ウサギ女。それが呼びやすいように活用していき『ウサ子』という形で落ち着いた。

 ウサ子の席は教室の特等席だ。窓際の一番後ろで、暇になれば彼女のように風景を楽しめる。四月は桜が散るのを眺められたに違いない。一か月前の四月、ウサ子は今の席よりも二つ前の席に座っていた。くじ運のいい奴だ。


 今日もまたウサ子の熱っぽい視線が刺さって、居心地が悪い。確かに俺は目立つだろうさ。なんてたって髪が緑色だからな。でもウサ子が俺を見ている理由は多分そうじゃない。視線がうっとうしくてウサ子をにらむと、今日も目が合った。ウサ子はやはり視線をそらさない。だから今日も俺が振り返って熱光線を髪の毛でいなすのだ。つーか、授業聞けっショ。


   *


 五月の日差しはさわやかだ。紫外線は五月が一番強いと巨乳のお天気キャスターが告げていたのを思い出しながら、体育係の号令にあわせて準備運動をしていた。部活のことをぼんやりと考えているときに、自分がやたらと落ち着いていることに気付いた。なぜだか物足りない。準備体操が終わり、整列して体育教師の話を聞いているときに違和感の正体に気がついた。三組、つまりウサ子のクラスのカーテンが閉められている。風でカーテンがめくれて女子生徒の、おそらくウサ子の袖口が見えた。

 級友たちがばらけ出して、俺は我に返った。物足りない?そんなはずはない。あのうっとうしい視線から解放されて嬉しい、の間違いだ。俺は深く息を吸い込んでからゆるく吐き出した。落ち着く。カーテンの向こう側で授業を受けるウサ子はやはり仏頂面だろうか。もしかしたらあまりの退屈さに居眠りしているかもしれない。間抜けな顔で眠りこけるウサ子を想像して、俺は一人で笑った。


   *


「田所っちのクラスのさ、窓際の一番後ろの席の女子、何つうの?」
 たまたま部室に俺と田所っちだけで、しかもさっき今泉がウサギ柄のTシャツを着ていたもんだからつい聞いてしまった。田所はしばらく考えて「矢野のことか」と逆に尋ねてきた。そうか、ウサ子は矢野というのか。

「矢野がどうかしたのかよ。」

 俺が何も言わないでいると、ホイールをいじる手を一瞬止めた田所がにやりと嫌な笑みをたたえてこちらを伺ってきた。言わんとしていることは分かるが、期待はずれである。俺はかいつまんで事情を説明した。体育の時間に矢野がグラウンドを眺めていること。いつも不機嫌そうな顔をしていること。たまに目が合うこと。田所は整備を中断して、俺の話に相槌を打っていた。

「こんな髪してるからな、目立つっショ。」

 確かにな、と豪快に笑われた。ウサ子と密かに呼んでいることは言わないでおく。これ以上勘ぐられるのは避けたいし、自分でもネーミングセンスがよくないと自覚していた。ウサギに似てる女だから、ウサ子。笑える。

「そういや、下の名前は?」

 例えば彼女の本名がヒロミだったら、あだ名はウサミに変えてやろうと思っただけでそれ以上の意味はなかった。田所っちはしばらく考えてから自信なさげに答えた。

「舞子、だったかな。」

 今度は俺が笑う番でクハ、と声が漏れるのを抑え切れなかった。当たってやがる。やっ
ぱりウサ子はウサ子だ。


   *


 金曜日五限目の古文の授業では国語の資料集を使う。しかし俺は分厚くて重いそれを持ってくるのが億劫で、新学年になってからずっと家に忘れたままにしている。それでいつも昼休みに隣のクラスの金城に資料集を借りに行き、そのまま適当に話すのがお決まりだった。

 しかし今日はたまたま金城がいなかった。昼休みはまだ時間があるので金城の席で待っていてもいいのだが、そうはしなかった。

 人通りの多い渡り廊下を抜けて、北棟から南棟へと移動する。三組の教室を廊下から覗くと、田所がクラスメイトと話しているのを見つけた。田所もすぐに俺に気がついた。国語の資料集を貸して欲しいと申し出ると、部室に置きっぱなしにしているという。そういわれてみれば部室の隅に積まれているコイツの教科書の一番上が国語の資料集だったような気がする。「金城に借りるわ」そう言って立ち去ろうとしたときだった。

「なにそれ、ありえない。」

 間延びした喋り方の高い声が教室に響いた。声の主は恥ずかしそうにきょろきょろしてから「やばい、今すごい響いた」とはしゃいだ。まるで別人のように笑っているのですぐには気がつかなかったが、ウサ子だった。呆然と見入っているとウサ子と俺の視線が絡まった。

「矢野、国語の資料集貸してくれよ。」

 田所がいたずらを企むガキ大将のような表情をしている。
「金城から借りるって言ってるっショ」
 小さい声で反論したが、矢野はもうロッカーに消えており、三組に来たことを後悔していた。というよりもウサ子と関わりを持ったことを悔いた。体育の授業をあと二回ぐらい我慢すれば席替えが行われるはずで、いくら矢野の運がいいといっても窓際以外の席に移動するだろう。そうなれば俺と矢野の関係はゼロに戻る。

「ここ、曲がってるけど。」

 はにかみながら差し出された矢野の資料集は表紙にくっきりと折れ目が付いていた。表紙が少しめくれた状態で維持されている。目の代わりに頬を赤く染めて、矢野はもじもじと体をよじらせた。


 神経質で大人しそうだと思っていたウサ子はよく笑う明るい女子だった。しかも思ったよりもウサギに似ていなかった。つぶらな黒目がちの瞳はウサギというよりハムスターの方が似ているかもしれない。教科書を返しにいったときも矢野に笑顔で対応されて、ウサ子と矢野は別人じゃないかと疑うくらいだった。

 古文の次は件の体育の時間だ。グラウンドから三組の教室を仰ぐと、予想通りカーテンは閉じていた。今日は初夏の陽気になると今朝のニュースでお天気お姉さんが言っていた。なるほど太陽が容赦なく地面を照りつけ、五月とは思えないくらい暑かった。ただでさえ気乗りしない体育の授業がなおさら憂鬱に感じる。今の季節からこんなに暑かったら、インターハイの頃にはどんな気温になっていることか。

 来週は曇ればいい、太陽に目を細めながら俺は心の中でつぶやいた。


   *


 俺の願いは叶ったらしい。翌週の天気は曇りだった。これで汗をかかずに済む。そもそも体育なんて得意で楽しみたい奴だけでやればいいのに。

 グラウンドを吹き抜ける涼しい風が背中まで伸ばした髪をなびかせた。伸びをしてから校舎に向き合うと、驚きのあまり心臓が大げさに伸縮した。いつものあの特等席にウサ子の姿がなかった。代わりに見たことのある別の女子が携帯を片手に頬杖をついていた。

 整列のとき、チーム練習が始まってから、試合の最中、何度か確認したが、ウサ子の席に彼女はいなかった。


 授業が終わって、俺は足早に三組に向かっていた。階段を上りきったところでちょうどチャイムが鳴り、二組の教室の前で教師とすれ違った。開けっ放しのドアから三組の教室を前の黒板から後ろのロッカーまで見渡すと、予想に反して目の前に矢野はいた。廊下側から二列目の一番前の席で教科書を机にしまって顔を上げた矢野と目が合った。

「席替えしたんだ。」

 上ずった声でそう言われて、俺もつられて動揺した。俺はなんでここに来ちまったんだろう。矢野の上目遣いはあの居心地の悪さを体の内側からふつふつと沸きあがらせた。

 不快なわけじゃない。照れてんだ、俺は、柄にもなく。ひねた俺はこういうまっすぐな瞳に弱いんだ。


「巻島くんって髪の毛きれいだよね。」

 それから矢野はしばらく俺の髪を褒めちぎった。艶があるとか、枝毛がなさそうで羨ましいだとか、他にもいろいろと。俺はそのお世辞を適当に聞き流しつつ、矢野の大げさな身振り手振りや丸くなったり細くなったりする目とウサギのような口に見入っていた。授業中に笑顔の奴なんざ気味が悪いが、あれだけ仏頂面をしているくせにこんな顔で笑うのは卑怯だ。

「また教科書貸してくれヨ。」

 休み時間が残り五分になったところで俺がそう切り出すと、矢野は嬉しそうに了承した。

「あたしも、今度教科書借りに行ってもいい?」
「国語の資料集以外でな。」

 自分の教室に戻ると男子の大半は着替え終わっており、俺は女子が帰ってくる前に急いで体操着を脱いだ。
 次に古文があるのは火曜日だ。


   *


 翌週の月曜日、女子らしく友達を一人引き連れて、早速矢野が教科書を借りに来た。

「予習したらそのまま家に忘れてきちゃって。」

 顔を赤らめて目をそらす矢野を見て、嘘ではないのかと密かに疑った。しかしそれは俺にとってはどっちでもいいことで、快く教科書を貸した。矢野は大事そうに俺の教科書を胸に抱えていった。


 そして俺は今、矢野から返ってきた英語の教科書で授業を受けている。昼休み前の四限目は空腹との戦いだ。黒板の上にある時計をにらんでも時間は一向に進まず、腹の虫が昼食を待ちわびてまだか、まだかと声をあげていた。クラスメイトが先生に当てられ、しどろもどろになりながら英文を読み、訳していく。それを聞き流しながら教科書のページをめくったところで、その一ページ先に何かが挟まっているのに気が付いた。それは二つ折りになった薄ピンク色のメモ紙で、丸っこいくせ字で巻島くんへと書いてあった。

『教科書ありがとう。よかったらメールしませんか。
           矢野舞子』

 その下にはアドレスと電話番号。つくづく積極的な奴っショ。俺は教壇の前で教科書に目を落としている先生を一瞥して、ポケットから携帯を取り出した。何件か新着メールがあったようだが、それを無視してメールの新規作成画面を呼び出す。携帯の番号と名前だけを書いて送信しようとして、指を止めた。

『矢野ってウサギに似てるって言われたことあるだろ?』


   *


 金曜日、六限目、南棟二階の三組、窓際の列一番後ろの特等席。白いカーテンを背景にこちらを見つめる矢野を俺も見つめ返す。




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