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通司さんは出てきません。

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 街を歩いていてふと目に入った学習塾の広告の学校名がどれも分からなかった。今更ながら地元から遠く離れた見知らぬ土地に来たのだとしみじみしつつ、その横を通り過ぎる。夕闇に溶ける街並みがよそよそしい。こんなにも大勢の人間が溢れているというのに友人と出会う可能性は雷に打たれるのと同じくらいだ。腕時計を確認するとすでに待ち合わせ時間になっていたので、足を早める。曲がり角を曲がると大学生らしき若者たちが騒ぎながら飲み屋の前でたむろしていた。ここは学生街なのでそういう光景は珍しくない。そして、タイヤの細い自転車ーーロードバイクだかクロスバイクだか、私には区別がつかないーーも多く走っている。自転車の男性が軽快に私を追い抜いていく。それを見ると思い出さずにはいられない人がいる。出来ればもう忘れてしまいたいその人の流れる汗さえもきらめいて見えた青春の日々、もう遠い過去のことだ。自転車で走り去る広い背中に恋い焦がれて、彼を目で追い続けた片思いは奇跡的に成就し、私たちはたどたどしく付き合い始めた。自転車から彼を連想するのはいい加減やめたいのに、気付けばぼうっと歩きながら彼のことを考えている。そう、今のように。そろそろ一年が経とうとしているのに、いまだみっともなく未練な気持ちを引きずっていた。

 彼は口さみしいからといって、常に何かをくわえていた。怪我で自転車をやめてから太らないための対策としてスルメやプリッツなどで口を塞いでおり、それは有効だった。煙草のときもあったが、快く思っていないことをやんわりと伝えればすんなりと禁煙してくれた。ただし、私の前だけだ。煙草嫌いの私が一大決心で指摘したのだと見抜いていたのだろう。彼はそれから私に隠れて煙草を吸うようになった。それに気付いたのはキスをしているときだ。彼の匂いに混ざって、煙草と思しき匂いがこめかみから流れてくることがたまにあった。「煙草吸ってるでしょう」そんな小さな抗議すらできなかった私はそれに関して完全に口を閉ざし、見て見ぬふりをした。鬱陶しい女だと思われるのが、嫌われるのがなにより怖かった。私の前では吸わないのをいいことに黙っておくことにした。しかし彼はそのことを察していたに違いない。私の気持ちを見透かした上で彼も私に何かを求めることはなかった。従順だが、つまらない女だと思われていたのだと想像するだけで今でも胸が狭くなる。結局最後まで甘えることもわがままを言うこともできなかった。

 離れてやきもきするくらいならいっそ、と別れを切り出したのは私。正直に言って、後悔している。しかし正しい選択だったとも思える。関東を離れた私と決して千葉を離れられない彼に用意された未来は、道は違えど同じ所だったのだから。



 商店街を抜けて駅に着いたらきっともうあの人は待っている。見初められたという言い方は大げさだが、私にその気がないと知りながら、それでも付き合って欲しいと頼んできた人ーー彼とは打って変わってよく喋る陽気な私の新しい恋人だ。この人に愛されているうちに、こちらからも好きになっていくものだろうか。そうしていつかは彼を忘れて幸せになれるのだろうか。この胸の重苦しさも彼への思慕も全てきれいに消え去って、あの人の、はたまた他の誰かの腕の中ですやすやと眠る日が来るとして、私はそれを望んでいるのだろうか。


 千葉にかえりたい。

 勇気を出して彼に思いの丈をぶつければよかった。好きで好きでたまらないのだと、包み隠さず全部伝えればよかった。離れたくないと、あなたのいない場所に私の居場所もないのだと泣いてすがればよかった。今からでも遅くはない。しがらみを全て捨てて、彼の元に帰る勇気があったのなら。


 駅に着いたとメールをするとまもなくほほ笑みをたたえたあの人が小走りで寄ってきた。甘いのと煙が入り混じった妙な匂いがする。

「最近は喫煙者に厳しくなってるんだね。喫煙所が見つからなくて往生したよ。」

 ほんの少しでも私に勇気があったなら、違う未来にたどり着けるのかもしれない。けれど、本当は知っている。「私、煙草を吸っている人が好きなの」なんて嘘をついてまで彼の幻影にすがる愚かな女に幸せな結末なんて待っていないのだと。




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