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 うるさいのは嫌いだっていうのに、どうしてオレはこの女と付き合っているのか。



 国道沿いのコンビニで休憩するのが今泉とリコの日課である。朝の太陽が地面を温めつつ、爽やかにきらめく。今日も絶好の自転車日和だ。青いスコットとピンクのキャノンデールが並んで壁にもたれており、その傍らで持ち主の二人が談笑していた。話題はもっぱら自転車で、二人にそれ以外の共通点はない。それでも不思議な縁で交際が始まり、一ヶ月がたったばかりだ。

「おまえ、そういえば今度のレース――」
「名前で呼んで。」

 先日そういう話になって「また今度」と流したのをリコは覚えているらしい。貸した雑誌やDVDの所在はよく忘れるくせに、こういうときだけ記憶力がいいのだからたちが悪い。今泉はため息をついて「中村」と呼んだ。それで満足してくれれば御の字である。

「だから、名前で呼んでってば。」

 間髪をいれずに、リコはもう一度同じことを唱えた。もちろん今泉とて「名前で呼べ」の真意くらい正確に理解しているが、もっと自然な流れでそうしたいと思って「また今度」にしたのだ。そんな今泉の心境など分かろうともしないリコは顔いっぱいで不満を表現し、二十五センチ下から今泉をにらみつけている。

「中村じゃあ、るりと同じじゃん。」
 るりというのは彼女の双子の姉で、今泉と同じく総北高校に通っている。曲者の妹とは打って変わって、大人しく良識のあるるりは今泉の数少ない女友達の一人だ。二人が交際までこぎつけたのも彼女の力が大きい。


「なんでそんなことにこだわるんだよ。」
「そんなことだぁ?大事なことでしょ、付き合ってんだから!」

 いちいち声がでかいんだよ。オレは静かなのが好きなはずだ。今泉は露骨にため息をついた。女子の生態に関して詳しい訳ではないが、殊にリコに関しては分からないことだらけだ。確かなのは彼女が奇想天外なトラブルメーカーであるということだけある。彼女はとにかく変わり者で、会話するだけで疲労することすらあるのだから、十六年間双子の姉妹をしている中村には頭が下がる。今回は珍しく普通の女子高生らしい点に関心を持っているわけだが、今泉にはそれが逆に不自然に思えた。

「おまえだってオレのこといまだにスカシって呼ぶだろ。」

 単にこの場を収めようと言っただけで、リコのように格段不満があるわけではなかった。スカシと呼ばれるのと比べれば名前で呼んでもらった方がいいに決まっているが、そこに彼女ほどのこだわりはない。むしろ、そう言えば彼女がこの話を一時的にでも諦めるのではないかと期待したのだ。

「俊輔。」

 しかしリコは照れる様子もなく、いとも簡単にそう呼んだ。なんの躊躇も感じられない。

「俊輔。これでいい?」

 丸くて大きな目がじっと今泉を見上げる。リコはレース前に見せるような真剣な表情をしていた。以前中村が「リコは良くも悪くもまっすぐだから」と言っていたが、流石は双子の姉、非常に的を射た表現である。不器用な彼女は同時に複数を処理するのが苦手で、一つのことしかにしか集中できない。今は今泉に名前で呼んでもらうこと以外頭にないらしい。


 国道を数え切れない車が走る。ふと店内の時計に目をやると出発しなければ遅刻してしまいそうな時間になっていたので、スコットを起こして、跨る。
「遅刻する。そろそろ行くぞ、――」
「また『また今度』なワケ?男らしくないなぁ。」
 そう言いながらも、リコもそれに倣う。時間が迫っていることにはどうやら気が付いていたらしい。今泉はぶつくさと文句を言うリコを振り返り、彼女を見つめた。派手な髪の毛が風になびいている。必要以上に塗りたくられた化粧はせっかくの彼女のあどけない魅力を台無しにしていると今泉は密かに残念がっていた。
「なによ、ヘタレ泉。」
 ヘタレじゃねーよ。こいつ、好き勝手呼びやがって。御堂筋みたいな呼び方すんな。

「リコ。」

 初めて名前で呼んだのだから緊張しないのはおかしい。ドキドキするなって方が無理だ。また笑われる。そう思って今泉は俯いた。いちいち照れちゃってバッカじゃないの。例の勝ち誇った顔でからかわれるに違いない。小憎らしさで彼女の右に出るものはいないと今泉は最近常々感じていた。しかし、車が走り去る音とコンビニの入店音がするばかりで彼女はうんともすんとも言わない。不思議に思って視線を起こすと、なんとリコは赤面して硬直していた。全く予測していない事態だった。

 静かにできるじゃないか。今泉は口角を上げて、いつものお返しをしてやることにした。

「照れてんのか?バカじゃねーの。」
「う、うう、うるさい!照れてなんか――」
「顔、真っ赤だぞ。」
「目の錯覚でしょ!前向け、前!行くよ、ホラ、遅刻しちゃう!」

 今泉はスピッツのようにキャンキャン吠えるリコの様子に満足して、ペダルを回し始めた。風を切って走る中、どうしてこいつと付き合っているのかという自分の問いに今泉はこう答えた。

 こいつとの付き合いはまるでレースだ。大抵こいつが先を走るが、抜いたときの高揚感は他のものでは味わえない。静かな先頭に甘んじているとまた抜かされて、オレはこの胸の高鳴りを求めるがゆえにあいつを追いかけずにはいられない。自転車に乗らずともそういう感覚になれるのは、リコが特別だからだろう。こいつみたいな女は他に見たことがない。だから、オレはこいつを選んだ。



 清清しい初夏の光がさんさんと輝く。国道十六号線はいつもどおり乗用車とトラックを流しながら海を臨む。今泉が前で、リコが後ろ。二人は今日もコンビニから少し先の交差点で別れ、それぞれ学校へ向かった。

「オレばっか追いかけてると思うなよ。」

 今泉は遅れてやって来た羞恥心を払拭しようとして、小さく呟いた。高校まであと少しだ。ちょうど前方にチームメイトの背中を見つけて、それを追いかけるためにペダルを漕ぐ足を速めた。




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