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 これは持論ですが、恋の三大要素フィーリング、タイミング、ハプニングの中で最も重要なのはタイミングです。

 だってマンガではいつもそうですもの。運悪く意中の彼が他の女の子と仲良くしているのを見てしまったり、奇跡のように街中で巡り会ったりするでしょう。恋愛に限らず、物事には好機というものが必ずあります。時機を逃してしまえば、望みどおりの結果を得ることはできません。早くても遅くてもなりません。しかし、それが難しいのです。ちょうどいいときを自ら計ることができたら、私たちの人生はばら色に輝くに違いないというのに。

 前置きはこれくらいにしておきましょうか。私が今からお話しするのは、私の妹リコと意中の殿方今泉くんが繰り広げる恋の物語でございます。追っては逃げられ、逃げたと思えばいつの間にやら追いかける。そう、まるで鬼ごっこのような。


   *


 午後六時半、彼は時間ぴったりに現れました。あいさつもそこそこに、リコの愛車に乗って彼を先導します。

 さて、どこから説明すればよいのでしょうか。現在私は妹の片思いの相手、今泉俊輔くんをわが家にお連れしている途中です。話せば長くなるのですが、なるだけ簡潔に説明いたしますと、妹のリコは今泉くんに以前から憧れており、運命的な出会いを経て今では朝練仲間になりました。ところがその矢先に病で床に臥せってしまったのです。大好きな自転車にも乗れず、大大大好きな今泉くんにも会えず、毎日つまらなさそうにしているリコのために姉は一肌脱ぐことにしました。私と今泉くんはクラスが違うものの、同じ学校に通っています。本日たまたま廊下で話しかけられ、こう訊かれました。

「お前の妹、最近朝どうしてる?」

 そうです、賢明な皆さま。今泉くんはわが不肖の妹を気にかけてくれているのです。先日も私を介して自転車のDVDを借りた際、ずばり訊きました。「迷惑なんじゃない?」と。なぜならリコは非常に目立ちたがりの派手好きで、気分屋な上に思い込みが激しい性格なのです。非常に癖があります。それはもう一癖も二癖も。

 ひねくれ者のリコは全く認めようとしませんが、今泉くんを好いているのは明白な事実です。しかしながらそれは完全なる一方通行なのではないのかと、今泉くんは実はとても迷惑しているのではないかと、私は心配だったのです。さあさあ、皆さん。今泉くん、何て答えたと思いますか?

「別に迷惑じゃない。見た目はあんなだけど、アイツも純粋に速くなろうとしてるのは分かるからな。」

 ポイントは俯き加減の赤ら顔です。今泉くんがあんな風に照れるだなんて、誰が想像したでしょうか。写真に撮ってリコにも見せてあげたかったのですが、そういうわけにもいかず。無念です。


 分かっていただけましたでしょうか。つまり、驚くべきことにリコと今泉くんは両思いではないかと踏んでいるのです。そういうわけで私はお借りしているDVDを口実に今泉くんをわが家に招くことに成功しました。ええ、私はリコと違ってやればできる子なのです。さあ皆さま、褒めてください。


 駅から自転車で十五分、わが家に到着しました。玄関を開け放ち、今泉くんを招き入れると、彼が紙袋を差し出しました。
「これ、見舞い品。」

 急に誘ったのは私だというのに、彼はお見舞いの品まで用意してくれていたのです。恐縮のあまり、お礼よりも謝罪の言葉が先に出てしまいました。ごめんなさい。そして、ありがとう。彼は「いいよ、別に」とぶっきらぼうに答えます。袋の中をちらりと覗くと、大粒のイチゴとコンビニの袋が入っていました。これは偶然じゃないとにらみ、ついつい顔が緩めて今泉くんを見つめました。

「なんだよ。」
「ううん、ありがとう。リコのために。」

 イチゴとブリトー。どちらもリコの好物です。イチゴはもしかしたらたまたまかもしれませんが、このウインナーのブリトーは今泉くんがリコのためにわざわざ買ってきてくれたと私には分かってしまいました。二人は朝練の後にコンビニに行ったことが何度かあるそうです。そのときにリコがブリトーに呪われていることを知ったのでしょう。だって、ほら、今泉くんまた俯いてますもの。

 ああ、この照れている顔を扉の向こう側で寝ているリコにも見せてあげたい。私は嬉々としてドアをノックしました。
「入るよ。」

 しかし!しかしです。まさかそんなことになろうとはこの瞬間の上機嫌な私は全く予期していなかったのです。悪気などありませんでした。あったのは九十九パーセントの善意と一パーセントの好奇心でした。


 リコは今泉くんを見た瞬間、とても驚きました。そうでしょう、そうでしょう。制服姿を見るのも初めてのはず。これも全て私のおかげ。ふふんと胸を張ったも束の間、リコは開口一番「何やってんの?」と言いやがったのです。今度は私と今泉くんが驚く番でした。

「せっかくお見舞いに来てくれたのになんてこと――」
「ハァ?バッカじゃないの!そんなことしてる暇があるなら自転車乗ってればいいじゃん!」

 私は声を大にして言いたい。バカはアンタだと。けれど、私が反論するよりも早く今泉くんが「ああ、そうかよ」と怒った声で言いました。バカ!リコのバカ!せっかく上手くいきかけてたのに!

「帰る。心配して損した。」

 そう言い残して今泉くんは帰ってしまいました。DVDも忘れて。ううん、本当はDVDなんてただの口実に過ぎなかったこと、彼はちゃんと分かってたのだと思います。だというのに、うちの妹ときたら信じられない!

 今泉くんを玄関まで追いかけていきましたが、もうすでに自転車にまたがっていました。
「今泉くん。」
 私の制止の声もむなしく、今泉くんはそのまま行ってしまいました。私がしょんぼりして部屋に戻るとリコは頭から布団をかぶって拗ねているようでした。ハァ?なんでアンタが怒ってんのよ。私はリコに腹が立って、その日はもう口をききませんでした。


   *


 リコは昔から変わっていました。姉である私が言うのもなんですが、おかしな子だったのです。クラスに一人はいましたよね、困ったちゃんが。リコはまさにそういう子供でした。おまけにひどい癇癪持ちの気分屋で、私はこの十六年間振り回されっぱなしでした。そして、ここにきて今泉くんも被害者になってしまったのです。


 翌日、学校で今泉くんに謝りました。DVDも返しておきました。今泉くんは峰が山よりも随分高いであろうプライドを傷つけられて、大そう怒っているようでした。私は姉としてリコをフォローしておこうと思って、リコの話をしました。

 中学のときから今泉くんに憧れていること、体が小さいのを気にしていること、今泉くんと走るようになって調子がいいこと。肺炎で自転車に乗れず、もどかしい思いをしていること。小さい頃は体が弱くて、それがきっかけで自転車を始めたこと。素直になれないリコの性格のこと。

「昨日だって、本当はすごく嬉しかったと思うの。」
「なんでナマエがそんなこと分かるんだよ。」
「それは、リコと私が双子だから。」
「全然似てないけどな。」
「私もそう思う。」

 会話が終わる頃には、今泉くんの表情が少し和らいだような気がしました。私、グッジョブ。


 そして、もう一仕事する必要がありました。考えても考えても、昨日リコがなぜあんな反応をとってしまったのか分かりません。以心伝心の私たちでも理解し合えないことはあります。だから私は帰宅後いまだベッドに横たわるリコに聞きました。

「昨日はどうしてあんなこと言ったのよ。」

 リコは何も言いません。むかつく。それどころか寝返りをうって、私に背中を向けやがったのです。リコのパジャマの背中で猫のプリントが私をあざ笑います。

「今泉くん、怒ってたよ。」

 無言。そうですか、そうきますか。リコなんてもう知らないからね。私は自分の部屋に戻り、怒鳴りながらベッドに飛び込みました。


   *


 その数日後、リコは全快しました。死にそうなせきをしていたくせに、元気になれば早速朝からロードバイクで走りに行きました。

 そしてその夜、私はリコからとんでもない話を聞かされたのです。私が自室で課題に取り組んでいたところ、リコが先日のケンカなど最初からなかったかのように平常どおりノックもせずに乗り込んできました。

「今朝、走ってたら今泉に遭ったんだけどさぁ。」

 ふむ、それはよかったじゃない。向こうはまだ怒ってそうだけど、どうなの、そのへん。
 筆記用具を机に置き椅子を回転させて、リコに体を向けます。

「アイツ挨拶したのに無視しやがったんだよ。ありえない!スカシ野郎、ホントむかつく!」

 私があっけにとられたことはもはや言うまでもないでしょう。開いた口がふさがらないとは、まさにこのこと。

「いやいや、何言ってんの。」
「おはようって言われたら、おはようって返すのが世界の常識でしょぉ?なのになんにも言わずに抜かしてったの!無言で!マナーがなってない!」

 いや、リコにマナーを語る資格なんてないから。私はそう一蹴してやりたかったのですが、とりあえず小事はスルーすることにしました。

「当たり前でしょ。今泉くんまだ怒ってるんだよ。」
「ハァ?怒るぅ?あたしが何したって言うのよ。」

 流石の私も開いた口がふさがりませんでした。どの口がそう言うのかと。いくら寝込んでいたからとてあんな仕打ちが許されるとでも思っているのかと。

「とりあえず、そこに座りなさい。」
 リコはベッドに腰かけ、水色のクッションを潰すように抱きました。私は深くため息をついてから、あんなこと言われて謝罪なしに許すのなんて私くらいだと、丁寧に説明してやりました。所々リコの見当はずれなツッコミが入りましたが、そこは十六年の仲、根気強く説明するとバカな妹もようやく今泉くんのナイーブな心を理解したようです。

「そういえば、なんであんなこと言ったの?」

 断言できます。リコは頭のねじを二、三個、母のお腹においてきてしまったようです。どうりで頭がゆるいわけです。私、納得しました。

「すっぴん見られたくなかったんだもん。」

 バッカじゃないの。私と同じ顔なんだから、そんなもんもう見られてんだよ。


   *


 翌日早速今泉くんに謝ったリコでしたが、彼はそう簡単にリコを許しませんでした。以前のように今泉くんの後ろについて走れることはなく、軽い挨拶だけで彼は颯爽とリコを抜かしていくそうです。リコは「その背中を見送るとさみしくなる」と言いながら今泉くんの後ろ姿を思い出してしょげていました。

「最近自転車乗ってるときも、気付いたらスカシ泉のこと考えてんだよね。アイツに抜かされると呼吸が乱れるしさぁ。ジョーチョフアンテーってやつ?」
「ただの片思いでしょ。」
「ハァ?誰が、誰に?」
「今更何言ってんの。リコ、今泉くんのこと好きなんでしょ。」
「えっ、いやいや、ないでしょ。ただ無視されると嫌だなーとか前みたいに一緒に走りたいなーとか。」
「だから、世間ではそういうのを恋してるって言うんだってば。」

 リコはしばらく考えてから確認するように呟きました。

「そうか、これが恋・・・」

 再三そう言ったじゃない。少しは私の話も聞いてほしいものです。


   *


 それからのリコの行動力はおそるべきものでした。まず、すぐに告白しようとしたリコを止めた私の手腕を褒めていただきたいです。告白よりも前に仲直り、そして距離を縮めようよ。

 なにより私はリコの気持ちにいまいち自信を持てないでいました。なにせ気分屋なわが妹ですから、明日急にやっぱり嫌いと言い出してもおかしくはないのです。それに今までの見事な鬼ごっこ模様を見せ付けられた身としては心配するのが当然というもの。

 ですから、猪突猛進なリコの代わりに私が慎重になりました。私たち姉妹は二人でひとつ、リコがアクセルなら私はブレーキなのです。


 しかし、リコの積極性は私の想像の範疇を超えていました。いつの間にか今泉くんのアドレスを入手し、日中はメールしているそうです。朝練でも毎日必ず会えるように二人で時間を決めて行くようになりました。気難しいと思っていた今泉くんもどうやら徐々に機嫌を直していっているようでした。


 ついにコンビニでの休憩までも復活して、リコは天にも昇る気持ちだったようです。そして、舞い上がったリコはとうとう言ってしまったのです。

「あのさぁ、あたし、アンタのこと好きになりかけてんだけど。」

 突然の告白に今泉くんは目を丸くするばかりで、声も出せなかったとのことです。そうでしょうとも、ゼリー栄養補給食を吸い上げている途中でこんなこと言われても誰もまともな反応はできないと思います。

「なりかけてるっていうのはさ、リコは気分屋だからせめてあと二ヶ月は待ちなさいって言われててね?」
「オイ、ちょっと待て。」
「でも多分二ヵ月後も好きだと思うんだよね。だからそんとき告白するから返事考えといてよ。」

 今泉くんは赤面して頭を抱えたそうです。見たかった。

「ちょっと、聞いてる?ねぇってば。」
「聞いてるよ。おまえちょっと黙ってろ。」
「なにそれ。黙ってやってもいいけど、ちゃんと考えといてよね!」

 今泉くんは消え入りそうな声で「分かった」と言って、自転車で走り去ったのだそうです。リコは置いてけぼりにされたとぷりぷりしていましたが、一言言いたい。なにそれはアンタだよ。


   *


 バレンタインデーが無事終わり、ロードレースのシーズンが始まったばかりのホワイトデー。三月といえどまだまだ寒い日々が続きます。そんな肌寒い中、本日は二人の記念すべき初デートなのです。ここまで苦節五ヶ月、私の苦労が報われる日がついに来たのです。

 ちなみにバレンタインでは私の手ほどきの元、リコは初めて男の子に手作りチョコをあげました。今泉くんは喜んでくれたらしく、今日この日を初デートの日と定めたわけです。

 私はリコと一緒に服を選び、デートコースを考え、ついて行きたい気持ちを抑えて笑顔でリコを見送りました。リコも満面の笑みで軽快な足取りで出かけていきました。


 しかし、デートから帰って来たリコはなぜか冴えない表情をしていました。普段映画など見ないリコですから映画がつまらなかったのかと聞くと、とても楽しかったとのこと。じゃあ、なにが。

「楽しくなかったの?」
 いつものように私の部屋で作戦会議です。
「楽しかったけどさぁ。」
 珍しく歯切れの悪いリコ。
「じゃあなによ。」
「自転車乗ってない今泉って初めてなんだけど。」
 そう言われてみれば、そうだね。
「服がださかったとか?」
「別に普通。あの、流行ってるウサギのシャツ着てた。」
 男子の流行など知らない私はウサギのブランドを知らないわけですが、ファッションにうるさいリコが普通というのであれば悪くなかったのでしょう。「服じゃなくてさぁ」とリコが真面目な顔になったので私はつい居ずまいを正しました。だというのに。

「なんか違う。」

 私は全身から力が抜けていくのが分かりましたが、どうにもならずベッドに横倒れになりました。アンタね、なんかって。今までの日々をなんか違うで片付ける気なの。


   *


 どうでしょう。恋愛におけるタイミングの大切さ、お分かりいただけたでしょうか。運命的なタイミングで出会ったというのに、好機を逃し続けてこの有様。フィーリングとハプニングだけでは恋は成立しないのです。

「鬼ごっこっていうか、イタチごっこになりつつあるような…」
「イタチゴッコ?なにそれ。」

 この二人が今後どうなるのか、もはやそれは神のみぞ知るとしか言いようがありません。なんにせよ、不毛な恋愛鬼ごっこはまだまだ、まだまだ続くようです。

 嗚呼、神様。今泉くんが一刻も早く正気に戻りますように!




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