フケンゼンな関係 | ナノ


 都心の複合商業施設に行きたいと隼人が言い出したので一度は止めておいた方がいいと却下したが「どうしても行きたいんだ」と頼まれてしまっては致し方ない。私は楽しいことが好きだ。勤務中のナツに会いに行くなんて面白そうな提案をされれば、それに乗らずにはいられない。



「あの店」

 遠巻きに指すと、隼人は「へえ」と興味深そうに漏らして目を凝らす。開放的な店構えのそのショップには休日ゆえ、買い物客がそこそこ入っていた。店の正面で対応中の女性店員はいかにも今風で、ナツに引けを取らないくらいかわいかった。あれがたまに話に出る後輩だろうか。

「おっ、いるな」

 隼人がナツを見つけたらしい。ずり落ちた眼鏡をさっと直し、私も店内に注視する。店舗面積はそれほど広くないが、陳列棚が邪魔をして見通しが悪い。

「どこ?」
「ホラ、あの右の棚の前」

 隼人の言うとおり店内右奥でナツはにこやかに笑っていた。それにしても流石長年接客業をしてきただけはある。ナツは派手なファッションの女性客とあたかも知人同士かのように自然に話していた。丁寧な手付きでかばんを持ち上げ、その人へ手渡す。

「なんか、別人だな」

 はっとした。親しみのある笑顔、しかし上品さを忘れないその振る舞い。彼女のしゃんと伸ばした背筋からは一切の媚びを感じられない。化粧で顔立ちがはっきりしていることも含めて、家の中のナツとはとても同一人物に見えない。私も概ね隼人と同意見だが、彼とはナツと付き合ってきた年月がまるで違う。

「やっぱり止めよう」

 隼人の返事を待たず踵を返してすたすたと歩く。

「アキさん?」

 隼人が戸惑いとも反論ともとれる声を上げたが、かまうことなく足を進める。すぐに小走りで彼も追い付き、突発的な行動の意図を問う。

「ナツのとこ、行くんじゃなかったのか?」

 上手く説明できる自信がなかった。私は元来口下手で、言いたいことを頭の中で十分に整理しないときちんと話すこともできない。だからそれには答えないで、ちょうど出入り口の近くにあったコーヒーショップを指した。

「コーヒー飲まない?」

 聞きながらも有無を言わさず店内に入る。隼人は「答えになっていない」など野暮なことは言わなかった。

「いいよ、何飲みたい?」

 メニューボードを見上げながらそう尋ねられたので財布から五百円玉を出して彼に押し付ける。

「アイスコーヒー、トールで」
「オッケー」

 並ぶのは彼に任せて、私はたまたま空いていた端のソファチェアの席に座る。携帯を確認すると時刻は二時前、そういえば昼食がまだだったと思い出し、後悔した。喫茶よりもレストランに行くべきだった。頭の中で文章を組み立てながら彼を待っていると、しばらくしてアイスコーヒーを二つと、スコーンとクリームの皿が載ったトレイを持って、隼人が向かいに座った。流石の私も失敗を認めて、軽く謝罪する。

「コーヒーよりご飯の方がよかったね、ごめん」
「いいって。この後行けばいいだろ」

 スコーンは前菜ということか。隼人は引き締まった身体の割に大食いかつ雑食だと分かっていたので、とりわけ驚かなかった。甘党のくせにコーヒーはブラックのままで飲むとか、カメレオンのように相手に合わせるのが上手いとか一ヶ月も一緒に暮らせば積極的に係ろうとせずとも彼のひととなりというものがなんとなく分かってくる。そして彼もまた私がコーヒーにも紅茶にも何も入れないということを知っているのだ。トレイの中にガムシロップが一つもないのがその証拠である。


「さっき別人って言ったでしょ」

 考えたけれど、結局どう切り出せばいいのかまとまらなかった。隣の男性客の耳にイヤホンがはまっているいるのは確認済みである。

「ナツのこと?言ったな」
「ナツはね、本当は人と話すのはそんなに好きじゃないの」

 隼人は唐突かつ取り留めなく始まった話に茶々を入れることなく、居心地の悪い視線を送りながら黙って聞いていた。

「でも接客って仕事柄そうも言ってられないでしょ。だから仕事中はああやって虚勢張ってるわけ」

 営業スマイルと言ってしまえばそれきりだが、実践する難しさを私も知っている。ナツと私の出会いはアルバイトだった。学生時代は私も彼女と同じブランドで接客の仕事をしていたのだ。そして彼女は正社員として働き続けることを、私は別の職に就くことを選んだ。

「猫被ってる、とは違うかもしれないけど、とにかくナツは演じてるの。喋れる自分、気の利く自分を」

 ああ見えてナツはとても繊細だ。仕事用の顔、友人用の、恋人用の顔、そして家用の顔。場合や人によって心の許せる範囲を決めて、それに則して過ごしている。それを器用だと羨ましがる者もいれば、八方美人だと罵る者もいるのだ。多面性のある人物は誤解されやすい。

「でもアンタの前では甘えたがりのかわいい女でいたいのよ」

 よそよそしい外面で隼人に接するのも、外で本来の自分をさらけ出すのもきっと嫌だろう。ちょっと考えればすぐに分かるような簡単なことなのに、いざナツが仕事をしている姿を見るまで忘れていた。隼人を目の前にしてナツがどういう反応をするのか見物には違いないが、リスクを伴う。彼女が隼人を怒るとは思えない。後で咎められるのはどうせ私だ。

「だから仕事モードのナツとアンタを会わせられない」

 半分本音で、半分は嘘だ。本当は私と隼人が二人で買い物に来ているのを見せたくなかった。ナツは独占欲が強い。

「なるほどな、言いたいことは分かった」

 話が一区切りついたところで隼人がコーヒーを吸い上げた。グラスがすっかり汗をかいてしまっているので紙ナプキンで水滴を拭いてから、私もすっかり乾いてしまった口の中を潤す。沈黙のせいで店内の雑音がやたら耳に障る。隣に座っていた客が荷物をまとめ始める気配に気を取られていると、皿の上からスコーンが消えていた。隼人はようやく探るような目を止め、解放された私は鼻から静かに息を漏らす。たくさん話したせいか、少し疲れた。

「一応言っとくけど、今話したこと――」
「分かってる、言わねぇよ」

 それなりに離れていたし接客中だったので、多分ナツは気付かなかっただろう。もう隼人と二人で出かけてはならない。彼はナツの彼氏なのだから。

「二人だけの秘密、だな」
「不慮の事故みたいなもんよ」

 隼人のペースに飲まれるわけにはいかない。きっぱりと言い捨てたのに「つれねぇなァ」と楽しそうだ。彼もなかなかの変わり者である。


 隼人はほとんど飲み干してしまっていたが、私のは残り半分くらいだ。氷で少し薄まってしまったコーヒーを強めに吸う。

「今日アキさんを誘ったのはプレゼントを買おうと思ってさ。今度ナツの誕生日なんだろ?」

 それを聞いて隼人の行動に合点がいった。通りで別行動を拒否し、女物の店ばかり回る私の後を文句も言わずについてきていたわけだ。

「ちなみに、オレもその日が誕生日だったりして」

 隼人は頬杖をついて不敵な笑みを浮かべている。手首には革製のブレスレッド。女から物を巻き上げる手口なのだろうか。そんな出来過ぎの話をすんなり信じられるほどロマンチストではない。

「嘘つき」
「ひどいな。マジだって、ホラ」

 ポケットから黒い財布を取り出して、その中の一枚のカード、運転免許証を差し出してきた。新開隼人。これが隼人の本名らしい。年は私たちより三個下、ということは大学生だろうか。神奈川県から始まる住所をまじまじと見ながら隼人の意外な行動に実はとても驚いていた。素性がはっきりとしないという理由で彼を遠ざけていたが、訊いたところでどうせはぐらかされるだけで正直に答えないだろうと決め付けていたのだ。免許証を返して表情をうかがってみるけれど、いつも飄々としているこの男はやはり仮面を崩さない。年下のくせに生意気だ。

「ナツとアンタって――」

 いけない、そんな無粋なことを訊くのは。

 水っぽいコーヒーを質問と共に飲み込んで、かばんに手をかけて立ち上がる。トレイを持とうとしたが、やんわりと隼人に制され任せることにした。

「…なんでもない。行こう」


 レストランで遅めの昼食をとってから、ナツに見つかる前にビルから去った。買い物はなかなか終わらず、結局夜までかかってようやく二人ともナツへのプレゼントを買うことができた。あとは当日を待つばかりだ。



「今日は楽しかった。ありがとな」

 帰宅して開口一番に隼人。「別に」と言いかけて、振り返って彼の顔を見た。厚い唇が弧を描いている。

「ん?」

 同居を始めて約一ヶ月が過ぎようとしていた。少しだけ素性も明らかになった。天性の女たらしだが、性格的には特に害があるわけではない。それに相方であるナツの恋人でもある。そろそろ態度を軟化させてもいいのかもしれない。自室のドアノブを睨んで、静かに息を吸い込んだ。

「私も、楽しかった」