novel | ナノ

あなたと私と観覧車



 ねぇ、覚えてる?

 初めてデートしたとき、観覧車の中で本当はキスがしたかったの。そう伝えたら、靖友は「あっそ」ってそっぽ向いたよね。だって、別れ話の後だったから。どうせ別れてしまうのなら私がどれだけ靖友を好きだったのかきちんと伝えなきゃって、あのときは思ったの。結局あのときも、それからも別れなかったけど。

 そういえば翌朝のベッドの中、寝ぼけ眼で私に抱きついて「オレもしたかった」って。すごく嬉しかった。ドキドキした。幸せだった。いまだに起きぬけだけは甘えん坊の靖友。いつもあれだけ素直でかわいいならいいのに。ああ、でもそんなだったら靖友が靖友じゃなくなっちゃうね。じゃあ今のままでいいや。



 一ヶ月、一年、二年。記念日にはあの観覧車に乗りに行ったね。夜になったら、色とりどりに光る観覧車。最初は向かいに座るんだけど、ある程度高くなったらいつも隣に移動する私と、嫌がるふりをしながらも隅につめる靖友と。二人を乗せてゴンドラが空に近づいていく。青空に――もしかしたらいつかは曇っていたかもしれないし、そういえば夜に乗ったこともあったけど――溶けたら、キスをする。二人の「好き」を重ねるように。あの日できなかったキスをここぞとばかりに。キスの途中でこっそりと靖友の下まつげを見ているの、このときはまだ知らなかったんじゃない?私が目を開けてキスするのに気付いたときは、照れて私の頭叩いたよね。うん、覚えてるってことは多分それなりに痛かったな。でも最近はもう叩いたりしなくなったね。ちょっと物足りなかったり寂しかったり。あ、やっぱり嘘。靖友、力加減下手なんだもん。



 今まで何百回も喧嘩した。そのたびに私は泣いて、わめいて、そんな私に靖友は怒ってさ。「別れろ」って低い声の後に「いやだ」って私の声。何回も何回も堂々巡りの別れ話。これからもきっと繰り返す。もしかしたら明日かもしれないし、来月かもしれないし、なんなら今日かも。飽きないよなぁ、全く。


 「なんで別れないの?」って友達に訊かれたら「そっくりそのまま返すわ」って大体答えちゃうけど。多分みんなそんなもんで、恋人のいいところ、好きなところなんて相手だけが知っていればいい。言いたい奴には言わせとけばいい。でも、友達がそう思うの、別に不思議だと思ってない。だって私ですら時々思うもん。「なんで付き合ってるんだろう?」って。でも、なんだろう。一緒にいたらそんなこと忘れちゃうくらい楽しくて、幸せだから、私たちはこれでいいんだよね。



   *



 春の嵐が吹き荒れる三月十八日。場所は変わって横浜、大学を卒業して遠方で就職した私に靖友が会いに来てくれた。風が私の髪の毛を靖友のコートを跳ね上げさせる。

「寒ーい!もう三月終わるよぉ?なんでこんな風強いの?」
「バァカ、春だから風強ェんだろ。」

 ポケットに手を突っ込む靖友の腕に絡まりながらぴかぴか光る目的地を目指す。冬物のコートを着て来てよかったと心底安堵した。

「そっか、これ春一番かなぁ?もう春来るよね?これ以上寒いのには耐えられないんだけど。」

 辺りはすっかり暗くなっていた。横浜の夜景はきれいだと聞くけど地上にいたんじゃそれも分からない。ただ海風が強く冷たく吹き荒れていた。容赦なく斜め上から私たちの行く手を阻むように吹く向かい風が憎たらしい。私の頭の中で横浜イコールの方程式は夜景ではなく強風にすり替わっていた。

「来るんじゃナァイ?」

 一日が終わってしまうのが名残惜しくて空元気する私にいつもどおりそっけない靖友。目的地がどんどん近くなるにつれて、私は昔を思い出す。


 観覧車に乗るのは久しぶりだ。付き合いたての半年くらいは月記念日ごとに乗りに行ったけど、時間がたつにつれて二人にそんな情熱はなくなり、かといって情がなくなったわけではなく。付き合って丸四年もたてば、最初の頃みたいにいちゃいちゃラブラブしなくなるのは自然な流れだ。そもそも私たちは四年前もそんな感じじゃなかったけど、それは置いといて。

 とにかく靖友と観覧車に乗るのは久しぶりだ。二人の長い交際のスタートを飾ったあの観覧車はもう取り壊されてしまったから。そう、四年の間にいろんなことがあった。浮気疑惑、すれ違い、倦怠期、もちろん幸せな思い出も。恥ずかしいからって靖友は結局つけてくれなかったペアリング。ずっとつけていた私も就職を機に指から外して、それでも二人ともまだ大切に取ってある。ペアリングを買ったときに記念として写真を撮ったのも観覧車の中だった。手首から先、大きさの違う私と靖友の手とその薬指に指輪が映った写真のデータは前の携帯に入ったままだけど。何度も眺めたその画像は私の脳裏に焼きついている。キスをしているときの下まつげも一緒に。


 観覧車の中でキスがしたい。
 靖友は知らないけど、少なくとも私は。



 そんな私の願いを風があざ笑う。憎くて憎くて仕方がない。観覧車は止まっていた。この強風の影響らしい。

「ウソだーー!動かしてよぉ!ねえ!せっかくここまで歩いてきたのにぃ!」
「っせ!しゃーねェだろ、動かねェもんは。」

 こういうときだけ大人ぶっちゃって。悪態つこうとしたけど、よく考えたら靖友は意外と大人だ。妙に物分りがいいというか、いや、興味のないことに執着がないだけか。

「でも、でもさぁ。」

 そこで、言葉を飲み込んだ。これは言わない方がいいことかもしれない。

「んだよ。」

 でも、言いたい。気持ちは伝えないと、思っているだけじゃ、相手にとっては思っていないのと同じだって。長年の付き合いで私はそう学んだつもりだ。

「次はいつ来れるか分かんないじゃん。」

 神奈川と静岡、それほど遠くはない。だけどお互いに暇もない。一昨年の私は遠距離恋愛を少し甘く見すぎていた。会いたいときに目を見られない。触れたいときに側にいない。声が聞きたいのに響くは電子音。この一年で味わった辛さはいつも隣にいた三年間分のそれを凌駕する。

「また来りゃいーでしょォ?オラ、とっととメシ行くぞ。」

 私の不安などおかまいなしにきびすを返す靖友にやっぱり腹が立ってきた。どうしてこんなにドライなの。もう少し残念そうにしてくれてもいいのに。嘘でもそうしてくれたら、嬉しいのに。

「もー、靖友は乗りたくなかったの、観覧車!」

 つい語調が荒くなる。私ばっかり好きなのかな、なんて。もっともその手の悩みは男も女も全員持っているのかもしれない。私たちはエスパーじゃない。靖友と一緒にいることがどんなに楽しくても幸せでも、愛されている自信だけはいまだに芽生えない。けれど、そんなものがあったら私はきっとそれにあぐらをかく。そうしてまた傷つけ合ってしまう。

「私と、観覧車、乗りたくなかった?」

 少しの間。靖友が何て言うか考えている、間。ほんの十秒、だけどそれがもどかしい。何とか言ってよ。

「おまえサァ、いちいち言われなきゃ分かんナイの?」

 呆れたように靖友。わざとらしいため息の意味をなんとなく察した。

「乗りたかったに決まってンだろ。」

 こういうときは決して私を見ない。言い終わるやいなや、靖友は乱暴に私の腕を引っ張って歩き出した。「少しは頭使えヨ」と早口に、早足で。なーんだ、また私の勝手な思い過ごしなんだ。安心に包み込まれて調子に乗った私は靖友をからかうことにした。もしかすると、こういうところがいけないのかもしれない。

「照れてるの?ねぇ、照れてるでしょ?」
「っせ!おまえマジうぜェ。むかつくわ。」

 冷たい風が、身体を頬を冷やす。でも、ちょうどいいくらい。ね、靖友。



 あ、そうそう。ずっと一緒にいれたらいいのに、って私は思うんだけど靖友はどう?将来家族みんなで観覧車乗りたいって私が言ったら、靖友はまだ照れてくれるかな、なんて。

 また今度、来年は乗ろうよ観覧車。





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