novel | ナノ

氷解


「それ、別れた方がよくない?」
さっきまで私の話を笑って聞いていた友人がいつの間にか引きつった表情になっていた。見れば私の隣で別の友人も苦笑いをしている。どうやら酒の勢いで赤裸々に語りすぎて、誤解を招いてしまったようだ。

「いやぁ、不満はあるけど、そこまでは。」
「そこまでの仕打ちだと思うよ、あたしは。」

 私が列挙した靖友の暴挙は以下の通りである。

 一つ、私を名前で呼ばないこと。おまえとかオイならまだマシな方で、最近はバカ、ボケナスから始まって、デブス、ひどいときには豚のようだと形容されることもある。

 一つ、私に手を上げること。もちろん本気の暴力ではなく、軽く小突く程度のもの、のつもりなのだろうが、そこには男女差なる隔たりが歴然と存在しているわけでたまに痛むときがある。ちなみにクリーンヒットしても謝らない。

 一つ、私の扱いがとにかく雑なこと。靖友の家に遊びに行っても、お茶も出してくれない。むしろ飲み物を用意するのは私だ。料理をするのも私の仕事だが、実家住まいゆえに料理の腕が未熟なため、失敗することもある。そういうときは容赦なく言われる。
「マッズ。」
 靖友に情けを要求してはいけない。先日部活がたまたま休みになったという靖友を前から見たがっていた映画に誘ったときはこうだ。
「おめーとは行きたくない。」
 私はその映画を特別見たかったわけではなかったからその日は外出しなかった。つまり、靖友に優しい対応を期待しても無駄なのだ。彼の優先順位は、部活、バイト、勉強、そして私である。彼女なのに、まさかの四番手。せめて部活の下くらいに食い込みたい。


 ここまで言って、友人たちの顔色の変化に気が付いた。確かにこれらを反芻するとなんともひどい内容である。この発言が友人のものだったら、私もおそらく同じ台詞をのたまうだろう。けれど、発言元の私としてはそのような意図は全くなかった。どう説明したらいいか考えをまとめながら、とりあえずカシスオレンジを飲もうとして木目調のローテーブルに目を落とした。

「うーん、なんて言うのかなぁ。別れたいとかじゃないんだけど。」

 私の正面に掛けている友人はいぶかしそうに、隣の友人は少し困ったような顔で私に注目している。じゃあ、なんなのよ。先を促す視線によって、二人がけの布張りソファの隅に追いやられる。いたたまれなくて再びカクテルを流し込み、食事に手を伸ばした。


 この二人と集まるとき毎回この店なのは単に店を決めるのが面倒なだけではない。ここのバーニャカウダのディップソースは絶品なのだ。一度靖友にも食べてもらいたくて連れてきたことがあるのだが、入り口の前で彼は入店を拒否した。ひとえにこの女子っぽい店構えが気に入らなかったからである。「こんなとこで女に囲まれながら、野菜なんて食えっかヨ。」そう言い捨てた靖友は私の手を引いて適当なラーメン屋さんにぶち込んだ。だから私はこの店には友人たちと来ることにした。こんなに美味しいバーニャカウダを知らずに過ごしているなんて、しかも味わうチャンスを自分から棒に振るなんて、靖友こそバカだ。


 私が人参をかじっていると友人は追究を諦めたらしく、メニューを広げた。ひとまず難は去ったらしい。アンチョビとガーリックの風味を堪能し飲み込んでから、店内を見回して店員の姿を探した。ランチタイムは色温度の高い青白いライトが店内を照らすが、夜になるとランプの色が変わって温かな光になる。メインの照明は壁面のスポットライトに替わり店内は全体的に暗くなるため内装は昼と全く同じはずなのに雰囲気が一転する。私は昼よりも夜の落ち着いたムードの方が好きだ。昼のこの店は眩しすぎて、靖友じゃないけれど少し居心地が悪い。やっとこさ厨房から姿を現した店員に目配せをして呼びつけると、友人は女子らしい甘いお酒を注文した。

「洋南大に行ってるんだから、もうちょい将来有望そうなの探しなよ。結婚を考えるような、さ。」

 店員がグラスを下げて去るのを見届けて、友人が再び口を開く。どうやらこの話題はまだ終わっていなかったらしい。

「そんなこと言われてもなぁ。」
「話聞いてると、彼氏がアンタのこと大切にしてるとは思えない。愛を感じない。」

 友人が知らないだけで、靖友はなんだかんだできちんと単位は取っているし、体育会系だから就職もそこそこ有利だろうし、そもそも理系だから大学院に進めば推薦で、と反論してやろうと思わないでもない。しかし、そうするのは野暮というものだ。ただの自慢ではないか。そこまで言えばしらけるに違いない。そして私は友人が言っていることが百パーセント間違っているとも思わなかった。

「そうだねぇ、もっと優しい方がいいよねぇ。」

 主語は靖友のつもりだったのだが、友人は意味を取り違えたらしく身を乗り出した。この友人は少々おせっかいで、押しが強い。
「でしょ?もっといい男紹介してあげるからさ、今度合コン行こ。」
「えー、いいよぉ、そこまでしなくても。」

 靖友と別れる気はない。たとえデブスと呼ばれようが、鼻でこき使われようが、私は靖友が好きだ。それに長年付き合って、今更ハイ終わりとすんなり別れられる自信もない。靖友と別れた後の自分が平常心でいられるとも思わないし、一時の感情で別れてしまえば後悔するのは目に見えている。

 鈍い赤の色水が入ったグラスは汗をかいていた。お酒がさほど強くない私は三杯目のこれを飲み干すのに三十分以上かけていた。氷が解け、透明に近い上層が形成されている。角張っていた数個の氷は丸みを帯びており、カシオレのプールにぷかぷかと浮かんでいた。零度以上の物質から熱をもらい、氷は解かされる。周囲が冷たくなければ解けてしまう。そしていつかは全て解けてしまって液体と混ざって見えなくなる。形がある物ですらこうやってなくなってしまうのに、形のないものをどう維持すればいいのだろう。グラスの外側を滴がつたうのを見て、くだらない不安に駆られた。



 そこそこ長く付き合ったのだから最初のようにラブラブのままとはいかない。二年前、大学一年生だった私と靖友。付き合いたての私たちは今より多少力関係が明白でなかったにしろ、主導権は靖友がしっかりと握っていた。けれど私のことはちゃんと名前で呼んでくれていたし、ねだれば好きだと言ってくれていたし、突っ込みも今よりも緩かった。そう、少なくとも昨今のしょっぱい対応ではなかったはずだ。ここ一年、いや半年の靖友は冷たい。

 そんな靖友もたまに優しいときがある。なんの琴線に触れているのかいまだ把握できていないが、気まぐれに優しい態度になってはすぐに戻るのだ。そのときの幸せは形容しようもない。靖友の鋭い目がほほ笑みでなくなり、彼の触れたところから愛しさが伝わってくる。あの瞬間だけは靖友の愛を信用できる。言葉にされてもされなくても、彼の表情が私を好きだと語る。夢のような幸福。しかし、次にありつけるまでは非常に時間がかかる。その上普段の靖友の態度といったら。それでもあの幸福感を享受できるのであれば、その前に辛い体験をしようともその瞬間を待とうと思えるのだ。荒北靖友にはそういう麻薬やパチンコのような中毒性がある。危険な男だ。

 そうは言っても靖友が私のことをちゃんと大切にしてくれていることは長年付き合っていれば分かるし、私は粗暴な面も含めて靖友が好きだ。ただ、そういう正直な気持ちを友人の前で言ってのけるのは気が引けた。友人の前で堂々とノロケていいのは付き合い始めの半年と決まっている。二年近く付き合っている彼氏を自慢するのは性に合わない。それに靖友に不満がないかと訊かれたら、先にも述べたようにノーである。悪口ではなくて名前で呼んでほしいだとか、もう少し高い頻度で優しくしてほしいだとか、その他諸々。そんなにわがままなお願いではないと思う。むしろささやかなのではないか。

 私は靖友が好きだ。別れる気などない。しかし、彼からの待遇改善を願っているのもまた紛れもない事実。これは本人に言って、改めもらうしかない。賢い彼だから、ちゃんと言えば分かってくれるかもしれない。



   *



「ってことがあってね?」
 靖友の家のキッチンは狭い。一人暮らしのマンションだから仕方がないのだろうが、そのせいで作業効率はぐっと下がる。以前それを伝えたら「言い訳してねェでさっさと作れ」と突き放された。

「ハッ、くっだらね。」

 靖友は私を見もせずパソコンを凝視したまま、忙しなくキーボードを叩いている。近々に提出するレポートがまだ終わっていないからといって、彼女に当たるのはどうかと思う。

「くだらなくないよ。だからさ、もうちょっと優しくしてくれないかな、なんて。」
「ヤダネ。」
「即答!?ひどっ。ねぇ、そんなこと言っても私のこと好きなんでしょ?」
「好きじゃねーヨ。」

 会話をしていても靖友の目は画面と手元の資料とたまにキーボードに向けられるばかりで、私をとらえない。苛立った私は洗い物をする手を一旦止めて、彼のデスクまでつかつかと歩み寄る。パソコンは文字の羅列と専門外の私には到底理解できない散布図が映し出されていた。

「なにそれ、二年近く付き合ってて今更何言ってんの。ちょっとは素直になりなよ。たまにはデレてよ。」
「バァカか、おめー。マジくだらねェ。」

 ここでやっと靖友が私を見た。うざいと顔に書いてある。忙しいんだヨ。見りゃ分かンだろ。邪魔だ。あっち行け、とも。靖友のいじめにはめげないが心情の私もこれには少しひるんだ。

「つうか、メシまだァ?腹減ってんだけどォ。」

 靖友は論文のコピーらしき資料をめくりながら、わしわしと頭を掻いた。このタイミングで話を切り出したのは間違いだったようだ。空腹は人をカリカリさせると言うので、もしかすると満腹は人をご機嫌にさせるかもしれない。話の続きは夕食の後にすることにして、コンロまで戻り、肉じゃがの煮え具合を確認した。

「もうちょっと。あ、キリのいいとこまでいったらテーブル片しといて。」
「ヘイヘイ。」

 気のない返事、そして間を置いてキーを叩く音が聞こえる。どうやら私が片付ける羽目になりそうだ。




 今日の肉じゃがと味噌汁はなかなかの出来だったと自画自賛しつつ、食器を重ねた。その証拠に靖友はお小言を言わなかった。美味しいと言われることもなかったが、もし万が一褒められたら明日の天気が心配になってしまうからこれでいい。洗い物をしようと立ち上がろうとして、左から腕を引かれた。靖友はそのまま私を乱暴に抱き寄せ、キスをした。

「言いたい奴にゃ、言わせとけヨ。」

 ああもう、これだから靖友ってば。この数十回に一回訪れる幸運を味わうと、もう戻れなくなるんだってことは私だけ知っていればいい。お待ちかねの幸せに包まれた私が靖友に抱きつけば、靖友は「寄んな、バァカ」と言いながらもそれに応えた。

「それ、さっきの話?」
「ソ。」
「私のこと好きなんでしょ?」
「調子乗んな。」

 首の側面でもぞもぞと動いていた唇が上下に別れて離れ、歯の感触に変わった。この満ち足りた時間の中では痛みは快感となり、前歯から首筋へ、手のひらから背中へ愛情が体の内側に染み込んでくる。こうして体内に蓄えた愛を少しずつ融かして血液と一緒に流しながら、次のときを待つ。
 いつか次のときが来るよりも早く愛が融けきってしまったら――それはくだらない不安だろうか。



 
靖友が酒を要求して、私は腰を上げる。レポートしながらお酒を飲もうという心理は全く理解できないが、ここで逆らっても言い争いになるだけだ。キッチンのメタルラックから焼酎の瓶を取り出して、次に冷凍庫の扉を開ける。製氷皿には氷がいくらかしか残っていなかった。

「靖友、氷がなくなった。」
「ハァ?ンなこといちいち報告してんじゃねーヨ。作りゃいいだろ、作りゃあ。」

 靖友は怒ったけれど、私はにんまりと笑った。






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