memory
見送りはしないでほしいと言われた。湿っぽく別れるのは苦手だと。そして自分のことは待たなくていいとも。
「黙ってて、悪かった」
申し訳なさそうに渡英を告げられたのは彼が発つ一週間ほど前だった。あまりに急だったので実感はあとからやってきた。真実を知れば最近裕介が忙しそうにしていたのも、田所が妙によそよそしかったのも頷ける。彼を問いただしたところ、どうやらインターハイが終わってから聞かされたそうだ。そのとき、彼らがそうなら私はこのタイミングだろうなと一歩置いた距離で納得するもう一人の自分がいた。裕介は私より部活や友人を優先する。それが交際をスタートする条件だったのだ。
どうせ別れてしまうのならこれ以上思い出はいらないと思った。物も記憶も残せば残すほど傷付くのは私だ。だから特別何かをしようとは提案しなかったし、裕介からすればそれは希望通りなのだろう。
男の割に細い指が私のそれと絡まっている。いつもハンドルを握る掌の皮膚は硬くて、それがなければ女の手のようだ。イギリスのことは話したくなかった。それは特別なことに分類されるように思えたからだ。
英語しゃべれるの?小野田くんは泣かなかった?田所は?裕介は、泣かないんだろうね―――話したいことは山ほどあったけれど日常を崩す勇気がなかった。電車で向い合せに立って、手を繋いだまま私たちは無言だった。今日が最後だというのに。
次第に私の降車駅が近づいてきた。裕介の表情は普段通りにも、愁いを帯びているようにも見えた。彼が薄く笑った。もう降りねばならない。
「オレも降りるっショ」
裕介が一歩踏み出そうとして心臓が跳ねた。見送るなって言ったくせに。最初に出てきた言葉はそれだった。
「いい。ここで、別れよ」
この表情は流石に分かる。拒絶されたのが意外だったらしい。そうだろう、私たちの付き合いといえばそういう力関係だったのだから。でももうそれも終わった。
「そぉか、じゃ、ここで」
指がほどけていく。汗のせいで湿ったそれがクーラーの風を浴びてたちまち冷える。
「向こうでも元気でね」 「お前もな」
ドアが開く音がして私はそちらに振り返る。もわっとした夏の空気に抱きとめられたときアナウンスが流れて、そこから先は一瞬だった。いつの間にか発車してしまっていた電車に驚いて裕介の方を見たが、彼はもう彼方だった。突如心臓が暴れ出して、私は走って改札を出る。階段を駆け下りて外に出たら、強烈な日差しのせいで足を止める。
記憶に残りやすいのは始まりと終わりらしい。 だから私はこんな憎らしいほど青い空とそれに浮かぶ入道雲を見る度に彼を思い出すのだろう。始まりのあの瞬間、視界全体に広がった緑色をその次に。
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