novel | ナノ

The Milky Way


 こと座のベガ、こと織姫星。わし座のアルタイル、こと夏彦星。

 二人は互いを愛するあまりに我を忘れ、職務を怠慢し、ついには離れ離れにさせられてしまった。そんな彼らが年にたった一度だけ会うことを許された日。それが七月七日、七夕である。



 乙女趣味の私は七夕が誕生日だなんてなんと素敵なことかと憧れるが、実際に今日が誕生日の裕介は「特にいいことなんてないっショ」とあくまでクールだ。しらけた男だと非難しないでほしい。そういう現実的なところも含めて、私は彼が好きだ。好きで好きで、好きすぎてどうにかなりそうなくらい好きだ。付き合ってもうすぐ一年と四ヶ月、最初はどうなることかとハラハラした交際も今のところ順調だと言えるだろう。ただし、私と裕介が最後に会ったのは正月だ。そして次に会えるのはおそらくまた年末――いわゆる遠距離恋愛というものを私たちはしている。それもただの遠距離ではない。日本とイギリス、海を越えた超遠距離恋愛を約一年前からやらせてもらっている。

 裕介が日本にいた頃は大好きな彼と付き合っているだなんてにわかに信じ難くて、実感が湧くまで五ヶ月もかかってしまった。皮肉にも私が彼の恋人であると一番強く感じたのは渡英を告げられたときだった。きっと元クラスメイトなんて疎遠な関係ではいなくなったことにもすぐには気付けず、誰かに教えてもらって初めて事の重大さを知ったに違いない。そこからだった、欲求が遠慮に勝り出したのは。

 黙って一人でモヤモヤするのを止めた。そして結果論にしか過ぎないが、それは成功だった。実際のところ裕介も私とどう付き合ったらいいのか考えあぐねていたらしいと後で彼の友人から聞かされて、私はほっと胸を撫で下ろした。それからというもの自分の気持ちは折々伝えるようにしている。元々そうしたかったということもあり、多少なりとも活き活きし出したのかもしれない。裕介も以前の私よりもそちらの方を気に入ってくれて、離れてからの私たちは以前に増して恋人然とした。しかし、私にはあえて言わないでいるたった一つの気持ちがある。

 「さみしい」と私が決して言わないのは口に出すことで思いが現実になってしまうと知っているからだ。だから私は「さみしくない」と言う。「こうやってスカイプで話せるし、たまにはビデオ通話もしてくれるし。十分だよ」それがつよがりだって気付いていたとしても裕介は多分何もしない。なぜって、何もできないからだ。実際問題、私が「あいたい」と言ったところで会えないのだから。




「誕生日おめでとう!」

 裕介とスカイプの約束を取り付けられて、私は幸せだった。時刻は午前八時ちょうど、イギリスはたった今日付が変わって裕介の誕生日になった。この瞬間に立ち会えたことが嬉しくて素直にそう告げると数秒の沈黙が降りる。

「よく恥ずかしげもなくンなこと言えるっショ」

 声音に呆れと感心が混在していた。思った通りの反応、それは私に満足感を与えてくれる。最近何があったとか、ロンドンは今日涼しかったとか、そういう何てことない話を聞くのが好きだ。話し上手じゃない裕介を質問攻めにしてあれやこれやと情報を引き出しては想像をより具体的にするのが楽しいのだ。それにそうやって出来る限り距離を埋めていかないことにはさみしさだけがどんどん募っていきそうで怖い。いつものように大学の話をしている途中で通話を始めたときから感じていた違和感の正体を突き止めた気がした。

「なんか今日ノイズが多くない?」
「そうかァ?いつも通りだぜ?」
「うーん、じゃあ回線が悪いのかも。一回切ってみる?」

 問うたところで、ピンポーンというチャイムの音が狭い自室に響いたので体をこわばらせた。一人暮らしを始めて三ヶ月経つが、誰かが来訪してくることにいまだ慣れず、チャイムの音にはいつもびくついてしまう。

「宅急便かな。お母さんから荷物が届く予定だったんだよね」

 玄関に目をやりつつ、裕介に退席を告げてから立ち上がる。パソコンのデジタル時計はゼロハチ、ゼロキュウ。少し早いようなので心配になってドアスコープから様子をうかがうことにした。女の一人暮らしなのだから十分に注意するようにと親や友人から口酸っぱく言われている。できるだけ足音をたてないように抜き足差し足で玄関まで歩いて、サンダルの右足を足場にしてそうっとドアスコープを覗くと、そこにいたのはやはり運送会社の人ではなかった。スコープから見える緑色の長い髪、誰とも間違えようのないその男。夢を見ているのかもしれない。ドアから一度離れて大きく深呼吸をする。忠実に再現されたアパートのドア。夢のくせにリアルな梅雨の湿っぽい空気。息をのんで再びドアに額を付けると今度は真っ暗だった。

「えっ」
「変なマネしてねェでさっさと開けろ」

 ドア越しにくぐもった裕介の声がする。いつもパソコンのスピーカーから聞いているそれとは少しトーンの違う、半年ぶりに聞く恋い焦がれた声だ。急いでチェーンロックを外してから開錠してドアを開けると、平然とした顔で裕介が立っていた。

「よォ」

 まるで近所に住んでいるみたいに、事もなげに。ぽかんとしている私の横を通って、裕介が靴を脱ぐ。私は今起きていることをすんなりとは受け入れられずにのろのろとドアを閉め、踏みつぶしていたサンダルから玄関の廊下に足を戻す。ロボットみたいにぎこちなく首を右に向けると「クハ」と裕介がいつもの笑い方でわらった。

「なんつー顔してンだよ」

 寝癖の立った私の頭の上に骨ばった平べったい掌が置かれる。それには確かな質量があった。よかった、夢じゃない。

「あ」
「あ?」

 裕介が不思議そうにおうむ返しする。一年前は日常的に行われていたそのやりとりが心底懐かしくて感情が昂ってしまった。

「あいたかったぁ」

 相変わらず個性派な七分袖のシャツの二の腕辺りを両手で掴んでぐっと裕介を引き寄せた。久々に嗅いだ彼の香りが変わっているような気がしたけれど、あえて無視して胸に顔を押し付ける。裕介は右手を私の頭に置いたまま、なされるがままだ。

「鼻水付けんなヨ」
「泣いてないから!」

 すんでのことでなんとか持ちこたえている私の必死さを知っていてからかう皮肉さは実に彼らしく、けれど再会した恋人にふさわしいロマンではない。

「帰ってくるなら言ってよ、ビックリしたじゃん」
「言っちまったらサプライズの意味ねェっショ」
「そりゃそうだけど…私にだって準備ってものがあるでしょ」

 シンクにお皿が少し溜まっているとか、下着の上下がバラバラでどうしようとか、他にも大小あれこれが頭を飛び交う。会えるんだったら化粧して一番かわいい状態で待っていたし、なんなら空港まで迎えに行ったのに。でもそんなのは些細なことだ。今こうして裕介に触れられる幸せと比べたらミジンコよりもちっぽけだ。

「…いつまでこうしてるつもりショ」

 だって、顔を上げる勇気がない。色んなものがこぼれていってしまいそうだからだ。そんな私の不安でさえも裕介には見透かされているのだろうなと思った。彼はとにかく聡い。細いくせに大きな男の子の手が私の耳の上あたりを両側から挟んで裕介に向かせた。もう観念するしかなかった。


「ゆうすけぇ」

 ホラ、泣いた。

「誕生日おめでとぉ」

 笑わないでよ、だいすきだよ。



   *



 私は織姫みたいにきれいじゃないし、裕介も彦星みたいに立派ではない。だから私たちは年に何度会ったって許される。

「織姫と彦星に羨ましがられちゃうね」

 空港で裕介を見送る私と「そォだな」って呆れ顔の彼。見送られるのは嫌いだと知っていて無理を通すくらいの図々しさがやっと彼に見せられるようになったのは遠距離恋愛のおかげなのだろう。

「今度は私が会いに行くね」

 別れ際の私の言葉に裕介が小馬鹿にするように笑う。でも私は知っている。彼はそういう人だということを。

「ナマエは織姫って柄じゃねェっショ」

 そうだね、私と裕介は星ではないから―――六千二百マイルの天の川はいつだって越えられる。



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巻ちゃん、お誕生日おめでとうございます!

2014,07,07






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