novel | ナノ

さようならの執行猶予 2<終>


 触れられはしないと分かっていながらも、消えかけの巻島くんに手を伸ばす。彼の身体を突き抜けて、私の右手が行き場なく宙で止まった。

「巻島くん、やだ。行っちゃやだ。」

 一週間じゃ足りない。もっとずっとあなたと一緒にいたい。このまま私の後ろに居てよ。私のこと馬鹿にして笑っても、もう拗ねたりしないから。泣きわめく私の頭を巻島くんが優しく撫でた。髪の毛を一房すくうような手つきをしたが、私の髪は微動だにしない。

「泣くなよ。オレはもう死んでんだ。」

 立つ鳥後を濁さず。巻島くんは全てを受け入れた表情で「仕方ないっショ」と呟いた。きれいすぎて切なくなる彼の伏目は私の足元を注視していた。こんなときくらい私を見て、最期なのに。これだからリアリストは――睨もうとして止めた。彼は悪くない。私は巻島くんが好きで、巻島くんも私を好きで、けれど巻島くんは死んでしまった。誰のせいでもない。強いて言うなら二人とも運がなかった。巻島くんの言った通り運命ということにしておけば、少なくとも私は彼に置いて行かれることをいつか割り切れるのかもしれない。時間が解決してくれると人事のように助言したくせに、そのときの彼の横顔はひどく寂しげだった。

 「嫌だよ、行かないで。」その言葉を必死に飲み込んでしゃくりあげる私の髪を巻島くんが撫でる。どうして感触がないんだろう。せっかく好きな人に触れられているというのに。

「私、巻島くんが好き。ずっと好き。」

 上目遣いに彼を見ると、ようやく視線が絡んだ。彼の顔色からは驚きが伺える。かと思えば呆れたように、しかし優しくほほ笑んだ。最期だからってそんな顔をするのは卑怯だ。

「バカなこと言うなよ。おまえは生きてんだ。この先誰か別の奴と――」
「私は!巻島くんが好きなの!」

 悲しくて存外大きな声が出た。彼のこういうところが嫌いだ。そして、同時に大好きだった。私を楽にさせるために言ってくれていることなどお見通しだ。どうして最期の最後で優しくしてくるのだろう。本心なのは分かっている。だからこそ余計に辛くて悲しい。正論とは時に理不尽で残酷だ。巻島くんは柄にもない落ち着いた声色で続けた。

「幸せになれっショ。」

 予想外の言葉に声もあげられなかった。目を見開いて凝視していると、居心地悪そうにそっぽを向かれた。照れるくらいなら聞きたくなかったよ、そんな言葉。嘘でも「一生オレを好きでいてくれ」って頼んで欲しかったよ――

 いよいよ巻島くんが透明に近くなっていった。彼が息を引き取ったという現地時間の夕方六時までもうあと五分しかない。この一週間のことがありありと思い出された。独特の笑い方で私を小馬鹿にする巻島くんの顔を肩越しに見ることはもうないのか。想像するだけでひどい喪失感に苛まれた。


「巻島くん。」
「なんだヨ。」

 あの日から何度も繰り返されたこのやりとり。数分後からは呼んでも二度と彼は応えてくれない、だからその前に。

「私の名前、呼んで。」

 恥ずかしくても目はそらさない。泣き顔がブスでみっともなくても彼を見て、彼に見てもらう。死んだ後も、私のこと覚えていて。私もあなたのこと絶対に忘れないから。玉虫色の髪の毛も、長いまつげも、右目の下の泣き黒子も、生涯覚えているから。あなたを好きだった私をいつまでも大事にするから。

「巻島くん、こっち向いて。お願い、名前呼んで。」

 見つめ合うのが照れくさいと思っているのは知ってる。でも私の泣き顔、忘れないで。あなたを想ってこれから何十回も何百回も泣くから、天国から「ひでェ顔」って笑ってよ。シニカルなあなたの笑い方、私は大好きだから。
巻島くんの両頬に手を添える。彼もまっすぐと私を見下ろしていた。時間は無情にも過ぎていく。もう時間がない。「さようなら。」私が口を開こうとしたとき、寸分先に巻島くんの唇が動いた。

「ナマエ。」

 名前で呼ばれたのは初めてだった。名前で呼んで。そう言いながらも苗字で呼ばれるものだと思い込んでいた。

「おまえが呼べって言ったんだろ。」

 恥ずかしそうに、けれど顔も目もそらすことなく巻島くんが言った。彼の頬に置いた私の両手はどうやら少なからず拘束力があるようだ。もっと早くに自分の気持ちに素直になっていれば、照れる巻島くんの体温を直に感じることができたのかな。あのときの私はなんて愚かだったのだろう。後悔し始めればきりがないけど、したところで何の益もなかった。後悔するくらいなら今できる最善を尽くそうと三日前に決めたことを思い出す。故に、こんなときだというのに高鳴る胸を抑えることなく、欲望をそのまま言葉にした。

「裕介くん。」

 ずっと、そう呼びたかった。恋人同士のように、仲睦まじく。

 腕を組んで街を歩きたかった。遊園地でデートしたかった。色んなところに二人で行って、遊んで、たまには喧嘩もして――喜びも悲しみも分かち合いたかった。巻島祐介という人生に私の名前を刻みたかった。あなたが生きているうちに、私たちやらなければならないことが本当はたくさんあったんだね。どうして二人とも気が付かなかったのだろう。こんなに好きなのに、どうしてもう会えないのだろう。本当に逝ってしまうの?私の手も声も届かない、どこか遠い所へ。

「ナマエ。」

 巻島くんがもう一度私の名前を呼んだ。彼が私の目から溢れる涙を拭う素振りをしたが、頬にしずくが流れるばかりだった。私は彼の頬から手を離し、自身で涙を拭いた。ありきたりだが、最期くらい笑ってさよならしたかった。

「一週間、ありがとう。」

 ぎこちない笑顔を作ると、巻島くんは穏やかな顔で目を細めた。一週間前に葬儀で見た彼の死に顔とだぶる儚い美しさだった。

「ねぇ、大好きだよ。」

 嗚咽のせいで上手く発音できない。けれど巻島くんは小さく頷いて答えた。

「知ってるっショ。」

 伝えたいことがたくさんある。でも全部を伝えるには時間だけが足りなかった。だからもう何も言わないことにした。巻島くんの初めて見る、そしてもう見られないほほ笑みをできるだけ鮮明に心に残そうとまばたきも惜しんで見つめていた。向こう側が透けて見えるほど薄くなってしまった巻島くんの顔が徐々に近づいてくる。無粋なことをしていると自覚していたが、目を瞑るのがもったいなくてそのまま彼を迎え入れた。私のファーストキスは大好きな人の唇の感触も体温も感じられない虚しいものになってしまった。レモンの味もしなかった。胸が締め付けられて痛い。嬉しいよりも切ないがはるかに勝った最初で最期のキス。巻島くんの長いまつげが揺れて目が開かれたのを、私は心に焼き付けた。

「オレも、おまえのこと――」

 好きだったっショ、そう聞こえた気がしたのは都合のいい空耳だ。幻聴だ。でも巻島くんは確かに数秒前までそこに存在していた。私を名前で呼んで、私にキスをして、私を好きだと言った。これ以上彼に何を望むというのか。始まったばかりなのにすでに終わっていた恋。鮮烈に心臓に刻まれた巻島裕介の名前は刺青みたいにこのまま生涯私と共に生きていく。



 肉体は滅びようとも魂は永久に輝き続ける。



 幽霊になった巻島くんと彼と両思いの私の一週間は、かくして幕を下ろした。





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