さようならの執行猶予 1
※死ネタです。ご注意ください。
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いつの間にか眠っていたようだ。泣いていたせいで目が痛い。喉がからからに乾いている。電気を点けて時間を確認すると丑三つ刻だった。階下に降り、キッチンへ向かう。食事は喉を通らなかったが、涙をたくさん流したため、水分が底なしに身体へと吸い込まれていく。空腹感はあるもののやはり何かを食べる気にはならなかった。彼はもう何も食べられない。飲めない。涙も流せない。そう思うとあれだけ泣いたというのにまた涙が滲んできた。
私が泣いたところで何の意味もない。けれど彼を悼んで流す涙が無駄だとは思わなかった。彼が遠くの空から見ているのだと信じることくらい許されるだろう。もっともリアリストを自称する彼にそんなことを言っても苦笑されるだけかもしれないけれど。癖のある笑い声が耳に蘇る。まるで彼がすぐ後ろにいるみたいだった。
乾いた涙の通り道が頬を突っ張るので顔を洗うことにした。洗面所の鏡台にはぼさぼさ髪をした三割増しブスな私が映っていた。
「ひどい顔。」
こんな顔、彼には絶対に見られたくない。友人よりほんの少しだけ近かった距離。もう二度と会えないのだと突き付けられて初めて知った自分の気持ちにまだちょっとだけ戸惑っている。こんなにも彼を好きだっただなんて、どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。今となっては気持ちを伝える術もなければ、ましてやそれが報われることも絶対にないというのに。
洗面ボウルにへばりついた髪の毛から彼を連想する。私を取り巻くありとあらゆる物が彼を彷彿させて、悲しみの渦へと誘ってくるのだ。今はまだその渦中に身を置いていてもいい。それくらい大きな存在を失ってしまったのだから。
「巻島くん。」
彼の名前を呼んだところで誰も答えやしない。だって、もう彼はどこにもいない――当たりどころが悪かったらしい。巻島くんは異国の地で帰らぬ人となってしまった。飲酒運転の車にひかれて、意識不明の重体。病院に搬送された後、まもなく息を引き取ったらしい。まだ十九歳だった。同い年の私が言うのもなんだが、人生これから楽しいことがたくさんあったはずなのに。
「巻島くん。」
田所から連絡をもらったとき、なんと悪質な冗談を言う奴だろうと憤慨した。けれど田所は重みのある声で言った。
「オレがそんな冗談言うと思うか。」
悲痛なその音色に「巻島が亡くなった。交通事故だったそうだ」という小学生すら理解するであろう言葉を何度も頭の中で繰り返し、咀嚼しようとした。しかし、できなかった。とても現し世のこととは思えなかった。
「巻島くんが、死んだ。」
きちんと口にしてもいまいちぴんとこなかった。葬儀に参列し打ちひしがれた遺族の顔を見ても、いざお焼香をしても、手のかかったドッキリなのではないかと疑っていた。巻島くんの死を現実だと受け入れられたのは葬儀がひと通り終わり、彼の死に顔を見たときだった。きれいだった。今にも目を覚ましそうなくらいに。けれど会場のあちこちからすすり泣きが聞こえ、見事な祭壇には立派な花と写真うつりの悪い遺影が飾られていた。それらが重なってやっと巻島くんは亡くなってしまったのだと分かった。今まで見た中で一番美しい彼の顔、けれど二度と私の名前を呼んでくれない。急に悲しくなってその瞬間から涙が止まらなかった。悪趣味だと思っていた緑色の長い髪すら愛おしく尊いものに感じた。この世界のどこを探しても巻島裕介という人物にはもう出会えない。そんな当たり前のことを生気のない彼の泣き黒子を見るまで分からないふりをしていたのだ。
「巻島くん。」
返事はない。返事がなくてもいい。
「巻島くん。」
やっぱり嘘。声が聞きたい。私の名前を呼んでほしい。
「巻島くん。」
伝えたいことがあるんだ。ねぇ、どこに向かって叫べばいいの。
「巻島くん!」
嗚咽混じりの叫び声が反響した。洗面台にすがりついて慟哭する私の頭上からあり得ないものが降りかかってきた。
「なんショ。」
弾かれるように顔を上げたが、鏡に映っているのはやはり私だけだった。ついに幻聴まで聞こえ始めたらしい。
「ひでェ顔。」
クハ、という聞き覚えのある笑い声に振り向くと、いるはずのない彼が立っていた。驚きのあまり涙が引っ込んでしまった。目をこすっても彼が依然として存在していることに動揺するばかりだった。幻聴どころか幻覚まで見えるようになってしまったようだ。
「嘘、でしょ。」 「残念ながら嘘じゃないっショ。まぁ、オレもなんでこんなことになってんのか分かんねェけど。」
髪をかきあげる仕草、私をまっすぐとは見ない視線、見間違いようのない緑のロングヘア、巻島裕介。
「巻島くん。」 「よォ、ミョウジ。」
巻島くんが私の名前を呼んだ。すぐ傍で、触れられる距離で、呼んだ。自然と腕を広げて彼に飛びついていた。しかし私は彼の身体をすり抜けてそのまま前方に倒れ、膝をつく。何が起こったのか理解できずに彼を見れば、彼の太ももに私が貫通していた。さらによく見れば巻島くんの身体は若干透明度が高いような気がする。しかも膝から下がどこにも見当たらない。
「悪りィな。オレ、ユーレイになっちまったみたいっショ。」
ちっとも悪びれないで巻島くんがそう告げた。この世には不思議なことが溢れている。不思議な髪の色で不思議なセンスの不思議な彼だから、こんなことがあっても「不思議」で済まされるのではなかろうか。巻島くんが差し出した手を取ろうとして再びすり抜ける。
「そうか、触れないんだったな。」
そうだった。こんなにもリアルな私の幻覚だが、流石に触ることまではできないらしい。私はタオル掛けを持って立ち上がり、巻島くんの顔をまじまじと見つめた。一年以上会っていなかったわりに忠実に再現出来ていると思う。髪はここまで長くなかった気がするけれど、この程度の差異は許容範囲内だろう。
「巻島くん。」 「なんだヨ。」
私が呼ぶ。彼が応える。
「私の名前、呼んで。」 「嫌っショ。」
私が請う。彼は応えない。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて――こみ上げてきたのはやはり涙だった。困り顔の彼がどうしようもなく愛しくなって手を伸ばしたが、何を掴むこともなかった。相変わらず触れることのできない彼がそこにいる。それでも私はもう一度彼の元気な姿を見ることができて、満足だった。神様も粋なプレゼントをしてくれるものだ。涙を拭って、また彼の名前を呼ぶ。
「巻島くんのこと、好きだった。」
泣き顔のブスだけど、これだけは伝えておかなければ。私の生み出した都合のいい幻想、それでもよかった。死してなお、いやむしろ居なくなって初めて気付いたこの大きな気持ちを彼以外の誰に告げても無意味だ。巻島くん本人にぶつけることにこそ意味がある言葉なのだから。
「そんなの、知ってたっショ。」
ため息混じりの巻島くんはまるで本物だった。いや、彼はきっと本物の巻島くんに違いない。単なる私の妄想ならここで甘い台詞の一つや二つは頂けるだろうから。「薄々な」と鼻の頭をかいている幽霊の巻島くん、照れ隠しだろうか。
「会いに来てくれてありがとう。」
泣き笑いの私に「たまたまっショ」なんて、今度は間違いなく照れ隠しだ。
幽霊になった巻島くんと彼に片思いする私の一週間は、かくして始まった。
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