novel | ナノ

三の倍数


 男が建物の上を走り移っていく。多少の隙間はなんのその、身軽に飛んでどんどんと町を駆け抜ける。背景はくるくる変わり、レンガの建物、建物の間に干された洗濯物、狭い水路。外国の風景はどんな所でもちょっとした風情がある。男を追いかけるガタイの良い二人組は度々発砲するが、どうしてか当たらない。まるで男がバリアを張ってその軌道を逸らしているかのようだ。シーンがめまぐるしく変わっていく。スピードが売りというこの映画は私の好みにはいささか合わないようだ。

「通司、」
「ん?」

 テレビから目を離さず口だけの返事を返されて私は「なんでもない」としか言えなくなった。元より用事があったわけではないのでせっかく集中しているところを邪魔したくなかった。通司の口にはするめ、左手には缶ビールが握られており、目はじっと主人公の男を見ている。その人じゃなくて私を見てよ。付き合って二年近く経つのに、そんなことも言えない。


 私と通司は体育祭カップルの生き残りだ。ひと夏のビーチの恋、真冬のゲレンデの恋と並んで寿命が短いのが学校行事、特に体育祭で芽生えた恋である。現に他の体育祭カップルは大半が在学中に、それ以外も卒業を皮切りにほとんど絶滅している。三の倍数で別れの危機が訪れるなんて言うけれど体育祭カップルにはそれが如実で、体育祭終了から早い者では三週間、受験と重なり大勢が別れた三か月、進路が別れた半年と壁を乗り越えられないカップルたちがどんどんコンビ解消していった。そして、それから約二年の月日が経過した。交際を続けているのは私たちの他に知っている限りではあと一組だけだ。先日の同窓会では「まだ付き合ってるの」なんて言われた。そのときに写真で見た懐かしい通司と私は今よりも幾分幼くて、そして眩しかった。

 きっかけこそ体育祭だったが、私は高校二年の終わりから通司が好きだった。半年間の片思いが実ったとき嬉しくて嬉しくて涙が出てしまいそうだったのをまだ覚えている。だからなのだろう。なかなか彼に踏み込めないのは。通司はどことなく掴めない男だ。どんな言葉に心動かされるのか見当もつかない。そして逆もそうなので、私はなるだけ発言に気を付けるようにしている。立ち入り禁止ゾーンに入ってしまったらひと度心の中から追い出されてしまいそうだから。



 火曜日の夜は長い。明日は通司の仕事、つまり彼の実家が営んでいる自転車屋の定休日だ。だから大体二週間に一度のペースで店を閉めた後に泊まりに来てくれる。千葉と東京はそんなに遠くないが、約二時間の通学が億劫だったのと、単純に一人暮らしの響きに憧れて私は大学入学と共に上京した。親の目を気にする事なく自由に彼と会えるのでその点は喜ばしい。会う頻度が高校時代と比べてぐんと下がったのにも次第に慣れてしまった。閉店が十九時なのでこちらに着くのは結構遅くなるが、待つのも苦じゃない。あともう少しで通司に会える。そう思うだけで俄然やる気になれる私は火曜日が一番元気だと自覚している。それに通司の来訪に合わせて、私も水曜日が休みになるように時間割を組んだ。二人の休日は週の半ば、水曜日なのだ。

 風呂から上がって髪を乾かしていると点けっぱなしのテレビで天気予報をやっていた。せっかくの休みだというのに明日の天気は雨、借りてきたDVDを見るしかない。あと二本ほどストックがあるのでヒューマンドラマかサイエンスフィクションか、どちらがいいか通司に確認しなくては。

 引き続きCMが流れる。テレビの中では女優が元気よくこじゃれた石畳の上を歩いていた。たまにはどこか行きたいな。そう思うけれど私たちには共通の趣味がない。出かけるとしたら大体ショッピングだが、実のところそれほど楽しめていないのが現状だ。なぜなら一緒に買い物に行っても、女物の服を興味なさそうに見る通司に申し訳なくて心苦しくなるからだ。通司の服を一緒に見るのは楽しいけれど彼は大抵即決してしまうし、あまり服は買わない。雑貨屋もよく覗くけれど果たして実家暮らしの通司が楽しんでくれているのか、彼女だというのに私にはちっとも分からないのだ。もちろん私は通司と一緒にいるだけで幸せだ。変に遠慮したり気を遣ったりしている私が悪いことなんて百も承知だが、どうやったらこの閉塞した関係から抜け出せるのか考えども考えども答えは出ないままなのだ。

 明日は一日何もすることがない。雨だと言うのでDVDを見て、あとは特に何をするでもなく過ごすのだろう。DVD、今度は面白ければいいけど。



 狭いベッドに私が先に入って、通司は電気を消してから潜り込んできた。どちらも特別身体が大きい訳ではないけれどシングルベッドに二人で寝るのはやはり少々窮屈だ。

 「おやすみ」と声をかけると「おやすみ」とそのまま返ってきた。付き合った期間が三の倍数を向かえても私たちに別れの危機が訪れる気配はない。これは私たちが恋人同士という心の距離じゃないからだろうか。ある友人曰く、喧嘩をして仲直りをしてこそ本当の恋人だと。つまり通司と私は偽りの彼氏彼女なのかもしれない。肉体が近くにあろうとも、心が遠く隔てられているのかもしれない。そうでないと信じたいけれど、確証は持てない。

 背中を向けて寝る彼に「通司」と小声で呼びかける。

「もう寝た?」
「いいや、どした?」

 なおも背中を向いたままの通司の背中にしがみつく。硬い感触が男を感じさせてきて胸が少しだけ弾む。

「どうかしたか?」

 私の右手を通司が握って、優しい声音で尋ねてきたが、私はやっぱり「なんでもない」としか言えない。「私のどこが好き」とか「いつから好きだったの」とか。「嫌なとこある」とか「してほしいことは」とか。「もっと一緒にいたい」とか「たまには二人でどこかに出かけたいな」とか。言ったら通司はどんな顔するのだろう。言うのなら、顔が見えない今がチャンスだ。

「ナマエ、寝たのか?」

 ぐるぐると回り回る思考の渦を通司の声が止める。イメージトレーニングは何十回何百回やってもそれの枠を飛び出さない。

「ううん、おやすみ」

 通司の背中からそっと離れると「おやすみ」と眠そうな声。私はやっぱり失望して、壁と向き合って目を閉じる。

 狭い狭いシングルベッドの中で向き合う背中は遥か彼方。もうすぐ付き合って二十一ヶ月、三の倍数がやってくる。





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