友人あるいは元カノ | ナノ

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 畜生、こんな大変なときに辞めるなんて。後先考えて行動してよ、社会人でしょ。せめてコンペが終わるまであと二ヶ月頑張れなかったの。その上労基にちくるなんて最低、残された人のことはどうでもいいってこと。あなたのその行動で一体何人の社員が苦しめられてると思ってるの。この野郎、今度会ったらタダじゃおかないからね!


 田中さんへの呪詛をエネルギー源にしているうちはまだ頑張れると思っていた。しかし半月が過ぎた現在、怒りは憐憫へと変化してしまい、どうにもやる気が起きない。田中さんも私もセクションリーダー、彼の気持ちが分からないはずがなかった。だから同情的になってしまうのも、私も同じ運命をたどりたいと願うのも仕方のないことなのだ。肉体的、精神的疲労も相まって私はすでにガス欠寸前のところまできていた。電話やメールに怯え、時計を見ればため息。口だけで何の役にも立たない、むしろ重箱の隅をつつくだけの課長に沈黙という暴言。取引先では張り付いた笑顔、なのに「疲れてるね」と言われて意気消沈。深夜まで、週末は泊まり込みで残業、残業、残業。


 田中さんにとっては仕返しのつもりなのだろう。他のセクションリーダーから聞くには私の前任者が辞めたときもそれはもう大変だったのだそうだ。特に退職した田中さんは近しい業務を担当していたがゆえに相当の激務だったらしい。

 業務の息抜きとして私は密かに企んでいた。いつの日か寿退社するときは電撃結婚して周りに大迷惑をかけてやろう。幸せなのは私一人、社内の誰に祝福されなくてもかまわない。なんて、私にはそんな肝っ玉もなければ、相手もいやしないのだけれど。それに結婚するときは皆に祝福され、盛大な披露宴をしたい。払いに払ったご祝儀はきちんと回収せねばならないし、女に生まれたからにはウエディングドレスを着るという平凡な夢も実現させてみせる。それを靖友に話したときには「くっだらねェ夢」だと一蹴され、さらに「付き合わされる将来の旦那がかわいそォ」とまで言われた。靖友だけではなく多くの男性がそう思っているのかもしれないが、どうせほとんどの男が付き合ってくれるのだし、結婚するなら嫌々でも承知してくれる人でなければこちらから願い下げだ。そしてそんなことを言っておきながらも愛する妻にねだられれば靖友とて承知することなどお見通しである。口では「メンドクセー」と言っていてもタキシードを着てくれるのが荒北靖友という男だ。白いタキシード姿の靖友を想像して笑みがこぼれる。まるで似合わない。


 ここ一ヶ月、飲みに行くどころではない私は靖友と会えないでいた。余計な心配をかけないように、仕事が尋常じゃない忙しさなのでしばらく飲みには行けないということはメールで伝えておいた。「分かった」とだけ書かれたメールを最後に靖友とは連絡を取っていない。たった一ヶ月だというのに、正直なところ寂しかった。私は待っていた、靖友から電話でもメールでも、とにかく彼がアクションを起こしてくれるのを。ああ、今日は金曜日なのに。


 資料作成がきりのいいところまで終わり、携帯の画面を点灯させるとメールを着信していた。ほのかな期待を裏切りはしたが、そこに表示されているのは意外な人物の名前だった。洋南大自転車部の同期マネージャーの名前、そしてその下の「久しぶり」の文字を素早く横になぞってメールの画面を開いた。着信したのは三十分ほど前だ。

『久しぶり。今度合コンするんだけど、よかったらゆうきも行かない?そうじゃなくてもご飯食べに行こうよ。』

 合コンの誘いという今の私とはおよそ結びつかないそのメールは張り詰めていた神経を少々緩めさせた。仕事が忙しいため行けそうにない旨を書いた返事を送信すると、深夜だというのにメールの返事はすぐに返ってきて、デスクを鳴らして震える携帯を急いで手に取った。やらねばならぬことが山積みになっているからこそ、やらなくていいことについつい時間を割いてしまう。斜向かいでは部下がうつらうつらしていたが、起こす気にはなれず、もういっそ眠ってしまえと思った。

 三通目のメールで予想外の、いや考えないようにしていた質問をストレートに投げかけられ、唇を軽く噛んだ。迂闊に彼の名前を出してしまったことを後悔した。

『そういえば、ゆうきと荒北って付き合ってるの?』

 イエスなのか、ノーなのか。私自身断言できそうになかった。こっちが聞きたいくらいなんだけど。しかしそんなこと言えるはずもなく『どうしてそんなこと聞くの?』とだけ返信した。携帯を握りしめてパソコンの画面で焦点を結ぶ。こんなことをしている場合じゃない。開かれたままのSNSには四つん這いの赤ちゃんの写真が映し出されていた。その下には旅行先での風景写真、ああ皆人生を謳歌している――

 案の定返事はすぐに来た。これでこのやりとりは終わらせよう。そういう消極的な気持ちで開封して、目を疑った。

『だって荒北ってゆうきのこと好きだったじゃん。』

 携帯を持ったまましばし硬直した。目で何度も文字列を追って、反芻する。しかし理解できなかった。

『からかわないでよ。変な冗談言ってると靖くんに怒られるよ。』

 精一杯の返信だった。心臓が暴れ指が震えたため、何度も打ち直して時間がかかった。だというのに、返事が来るまで三分足らずだった。私は携帯が震えた瞬間にメールを表示させる。

『マジだって!』

 それ以降の文字はいよいよ頭に入ってこなかった。岡目八目ってどういう意味だっけなんて思いながらぼんやりと真っ暗になった画面を見つめていた。仕事をする気にはとてもじゃない、なれなかった。静かすぎるオフィスにただ私の心音だけが響いた。ぎこちない動作で立ち上がり、出来るだけ足音を立てずに退室して、トイレに向かった。幸いトイレには誰もいなかった。便座にへたり込み、同期からのメールを再び見た。顔が熱くなっているのが分かる。多少の息苦しさすら感じた。

『そんなわけないじゃん。靖くんには彼女いたんだから。』

 まるで自分への言い訳だった。靖友には奈緒がいた。私の知る限り靖友は奈緒が好きだった。彼女と直接話をしたことはほとんどないけれど、靖友から名前をしばしば聞いていた。それなのに急に何を言い出すのか。本気で言っているのだろうか、それとも悪質な冗談――

 
 私は目を閉じて眉間にしわを寄せ、大学時代に思いを馳せた。
 そうじゃないかなと今までに一度も思わなかったわけではない。いつも気にかけてくれるのも力になってくれるのも、好意に由来するのではないかと期待したこともあった。マネージャーたちが靖友を粗暴なだけの男だと罵るのを見て、なぜ自分には優しくしてくれるのだろうと疑問に思ったこともあった。確かに部内では私だけを特別扱いしている節が多々あったことは認める。しかし誰が何と言おうと靖友は奈緒と付き合っていた。つまり私よりも奈緒の方が靖友に優しくされていたし、特別な女の子として大事にされていた。私の知らないもっと優しい目をした靖友を少なくとも奈緒は知っているはずだ。

 そうでなければ私と靖友の関係は何だというのだろう。仲の良い友人だと思っていたのは私だけだったのか。靖友は私をそんな目で見ていたというのか。奈緒ちゃんと別れたから今度は私?違う、違う、そんなはずない。だって靖くんは。

 そこでぷつりと意識が途切れた。極度の疲労を溜め込んでいた私はそのまま便座の上で一夜を過ごしてしまった。



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