友人あるいは元カノ | ナノ

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 唯一の救いといえば週休二日制、つまり土日は休めることだ。しかし同時に「せめて花金だけは」と気を遣ったであろう課長が金曜日は自由残業というルールを作ったため、土日に出勤する者も少なくない。どのみち月曜がやってきて、やれ納期だ会議だと膨大な業務が迫ってくるのには変わりないので、金曜日に遊んだ分は各自土日で取り戻す必要があるのだ。だからいくら自由残業だといっても課の三分の一くらいはまだ仕事をしている。私はというと土日まで会社に来るなんてごめんなので、よっぽど大事な用事がなければ金曜日も変わらず残業している。そうでないと日曜日の午後がさらに憂鬱になってしまう。

 私のチームは、課では一番平均年齢が低い。遊びたい盛りの若い部下たちがこぞって遊びに行くため、金曜は大抵私と花井さんだけが残業している。若いといっても三、四個下なだけで私もまだ十分若いつもりだ。前任者は私より二期上の男性だったらしいが、激務はもちろんのことチームの連携が取れずに心のバランスを崩していったと聞いているので、私はチームメンバーに気を遣うことが多かった。実際いくつも違わない部下たちのノリについていけず苦労することもしばしばある。今までリーダーというものに縁がなかったので部下をどのように扱ったらいいのかいまだに掴みかねており、中でもこの年かさの部下、花井さんにどう接したらいいのか一年経った今でもよく分からず、どうしてもよそよそしくしてしまう。

 花井さんは私より五個上の先輩社員であり、部下でもある。年長であるため強く当たることもできず、かと言って仕事ができるタイプでもないのであれこれ導いてやらねばならない。私だって本当はそんなことしたくないのだが――年下でしかも女にこき使われるなんて屈辱だろうと申し訳ないとも思っている。それに彼は家庭持ちだ。つい先日息子が生まれたばかりだそうで、目尻を下げて写真を見せびらかしていたのは記憶に新しい。奥さんが生後間もない赤ちゃんと帰りを待っているだろうに、毎日こんな遅い時間まで拘束してしまっている。そういう負い目も合って彼にはなるべく単純な仕事を回しているつもりだが、この時間まで残業されてしまうともうどうしたらいいのかまるで分からないのだ。


私をはじめとした課の社員たちが電話口でぺこぺこと頭を下げる花井さんを白い目で見ていることをおそらく彼は知らない。

――花井さんは優しくてまじめなんだけど、ねぇ。

 いつもはニコニコしている女性社員たちがそう噂しているのも知らない。

――花井はとろいんだよなぁ。十年もやっててあれじゃあなぁ。

 彼と同期入社の男性社員たちに飲み会の場で馬鹿にされているのも知らない。


 そして私がもっと早い時間に帰宅させてあげたいと思っていることも知らない。私は彼に同情していた。また、羨ましくも思っている。守るべき対象が定まり、働く意味を見出せた彼は以前よりも心なしかはきはきして見えた。


「花井さん。」

 オフィスは閑散としているためなるだけ小声で話しかける。花井さんは作業途中だろうにすぐに手を止めて私に顔を向けた。こういう小さなところからも要領の悪さが伺える。

「今日はあとどれくらいですか。」

 すでに二十二時を回っていた。議事録のまとめと次回の会議の資料作りを頼んでいたが、そこまで時間のかかる作業だとは思わない。だというのに、花井さんはどちらも中途半端にしか終わっていないと言う。

「私がやっておきますよ。」

 そう提案すると腑に落ちない顔をされた。そもそもその仕事は私が頼んだので当然といえばそうだ。しかし、花井さんはもう家に帰るべきだ。彼を待っている人がいるのだから。

「今日だけ、特別です。」

 ささやかな出産祝いのつもりだった。「いや、しかし、」と口ごもる花井さんに「いいから」と珍しく強気で対応する。彼は最後まで合点がいかない表情だったが、私が粘ると渋々ながらも帰っていった。彼がフロアを後にしてから作りかけのファイルにざっと目を通す。なるほど加筆修正する箇所が多そうだとため息をつけば、それと一緒にやる気も湧いてきた。



 私は元来お人好しだった。それで得したことも損したこともあるから長所とも短所とも言えない。ただ情に厚いのは決して悪いことではないと自分では思っている。

――おまえ見てっとイライラすんだけどォ。

 今以上にノーと言えない性格だった私を見て、靖友はよく悪態をついていた。でもキャパシティ以上のことを背負い込み、パンク寸前になった私を手伝ってくれるのはいつも靖友だった。口では文句ばかり言いながらもいざというときは彼が真っ先に助けてくれていた。相棒マネージャーに先に帰られてしまったときには靖友が仕事を半分してくれた。悩み事にぶち当たれば居酒屋で相談に乗ってくれた。靖友と私はいい友人だった。ここ数年連絡をとらなかったことの方がおかしいくらいに。


 仕事にようやく区切りがついたときにはもう誰も残っていなかった。

「あー、終わったぁ!」

 わざと大きな声でそう宣言して、立ち上がって伸びをする。時計に目をやればやはり終電の時間は過ぎていた。会社から徒歩で帰宅するのはもはや月に一度の恒例行事となっている。荷物をまとめてかばんを肩にかけたとき、ふいに自分の言葉が蘇った。それは喉に引っかかった小骨のようにちくりと私を刺してくる。壁掛時計は午前一時十五分を指していた。上着のポケットから携帯電話を取り出して、連絡帳からお目当ての人物を検索して指を止める。荒北靖友の文字を見つめながら十秒ほど思案したが、思い切って発信ボタンを押した。コール音が鳴る。

「もしもしィ?」

 不機嫌そうな靖友の声を聞いて、なぜだか笑いがこみ上げてきてしまった。



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