友人あるいは元カノ | ナノ

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 靖友の部屋はこざっぱりしていて、やはり散らかってなどいなかった。新橋駅から十分弱歩いたところに建つマンションの一室、靖友の家のソファに座ったままマスカラがウォータープルーフでよかったなんて小賢しいことを考えていた。演技で泣いたわけではない。悔しかった。会社の人たちと別れてすぐに涙をせき止めていた私の根性は折れ、ぽろぽろとそれが溢れた。靖友と会ってしばらくまで涙は止まらず、ただ事ではないと気を遣ったであろう彼は「靖くんの家行きたい」という私のお決まりのわがままを渋々受け入れ、現在に至る。

「ビールでイイ?つーか、ビールしかねぇぞ。」

 目の前に差し出されたビールを無理やり喉に流し込んだ。妙に苦く感じた。今は浴びるほど酒を飲みたかった。靖友になら醜態を晒してもかまわない。過去何度もそうしたことがあったが、彼は私を見捨てたり蔑んだりしない。他の人にはどうだっていい。靖友が私には優しくしてくれることは十年近く前から知っている。

「で、何があったんだヨ。」

 靖友のその言葉を皮切りに今しがたの出来事を話した。上手くは話せなかった。十分酔っていたところにビールを飲んで自分が何を喋っているのかさえもよく分からないような状態で、とにかく思いつくがままに言葉を並べた。五百ミリリットルの缶ビールはすぐに空になってしまい、私のマシンガントークもそこで弾切れとなった。

「話は大体分かったケドォ」

 靖友が新しいビールを持ってきてくれたので、ためらわずプルトップを開け口付けた。ここから靖友の反論が始まるのだと身構えた。こういうとき昔から靖友は私に率直なアドバイスをしてくれていた。女の愚痴は聞くだけでいいとよく言うけれど、私の場合半分ずつだ。聞いてくれるだけでも十分だけど、助言をもらえるのは素直にありがたい。それを実行するかしないかは別として世間には色々な価値観を持った人間がいることを思い出させてくれるからだ。十人十色という言葉は何かと都合がいい。

「私、花井さんのこと馬鹿にしてないのに。」

 靖友が何かを考えるように黙ったかと思えば、落ち着いた声で異を唱えた。

「どーだかな。おまえ、前ソイツに同情してるっつったろ。同情っつう言葉にはサ、少なからず見下してるっつう意味が含まれるモンなんじゃねーの。」
「…そんなつもりじゃ、私はただ、かわいそうだと思って―」
「ソレだヨ、ソレ。ソイツを仕事のできないカワイソーな奴だって思ってるから見下してるような態度になんだよ。」

 言い返す言葉がなくてビールを飲む。靖友の言うことは大抵私が分からないふりをしているだけの真実だ。

「おまえ、自分で思ってる以上にそゆの態度に出てんぜ。」

 いつもは有難いと感じる靖友の言葉だが、今は聞きたくなかった。おまえは悪くないなんて靖友が言ってくれないことなど分かっていたのに今なら甘い言葉をかけてくれるかもしれないと期待した私が愚かだった。どんどんずるい女になっていく。自分が嫌いになりそうになる。それでも靖友が私のことを好きでいてくれたら、そのときは私も私を好きでいられるかもしれない。そんな都合のいいことを考えていた。もうこれ以上厳しい言葉を聞いていられなくなった私は靖友を黙らせたい一心で彼に抱きついた。目をきつく閉じる。彼が右手で持っているビールがちゃぷんと揺れて、その後静かにテーブルに置かれたのが音で分かった。私の意図した通り靖友は押し黙って、けれど希望には反して抱き締め返す気配もなく硬直していた。靖友の匂いがする。スウェットに顔を押し付け、なお力を込めても靖友はしばらく動かなかった。これを受け入れてくれたと取るには少し頼りない。けれど酒の力を借りてもこれ以上私から迫ることはできなかった。ここから先は靖友に歩み寄ってほしい。私は靖友の腕を何十秒も何分も待った。しばらくの沈黙の後、靖友の右腕が上げられるのが気配で分かった。心臓がきゅんと締め付けられる。そして私の背中を軽く叩いて、そのままそこに落ち着いた。かと思ったら、すぐに左手で押し返された。

「酔ってんなァ。」

 どうして靖友がそんなに辛そうな顔をしているのか全く理解できなかった。耐えきれずに時計に目をそらすと終電はとっくに終わっていた。

「泊まってもいい?」

 玉砕覚悟だった。ノーと言われれば靖友とはそれきりにするつもりで訊いたのに「好きにしろヨ」と返事されてしまえば、それもできなくなる。この場合の好きにしろは「泊まっていけ」と翻訳することができる。へべれけになった私を一人で帰すのは心配だからだろうか、それとも――どうやらずるいのは私だけではないようだ。私、靖友の順にシャワーを浴び、私はベッドで、靖友はソファで寝ることになった。「こっちで寝よ?」と誘ってみたが思った通り「バァカなこと言ってんじゃねーよ」と拒否されて苦笑する。ただその真意がいまいち読み取れないでいた。ベッドからなじみのない、先ほどと同じ匂いがして鼓動が速くなる。ドキドキして眠れそうにないと思ったのも一瞬で泥酔した私はすぐに眠りについてしまった。



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