10
「靖くんち行きたかったなぁ。」 「まァだ言ってんのかよ。」
トラットリアでの食事の後、まだ時間も早いのではしごすることにし、二軒目はバーに来ていた。薄暗い店内に大きめの音量で洋楽がかかっている立ち飲みの店だ。ここには何度が来たことがあり、酒の種類がそこそこ豊富な上に値段が張らないのでわりと気に入っている。初めは「靖くんの家に行きたい」と駄々をこねてみたのだが、あっけなく却下されてしまった。
「だって、どんなとこに住んでるのか気になるもん。」 「今散らかしてんだっつってんだろ。」
嘘ばっかり。口にはあえて出さずに抗議の目線を送ると靖友は「何回聞きゃ気が済むんだよ」と面倒くさそうにため息をついた。
「別に気にしないのに。」 「バァカ、俺が気にすんだよ。」
そう言ってから瓶ビールを煽る靖友はいつの間にかネクタイを緩めてシャツのボタンを開けており、出っ張った鎖骨が覗いていた。
「靖くんは変わんないね。」
唐突な私のつぶやきに靖友は面食らった顔をしたが、すぐに不機嫌そうな声色で「なにが」と尋ねた。
「お酒の好みとか。大学の頃も好きだったよね、それ。」
靖友が右手に握るコロナを指すと「アア」と合点がいったように頷いてからそのまま俯いた。
「おまえは変わった。」
声のトーンが低かったので、心臓がきゅっとなった。失言したのかと恐る恐る顔色をうかがってみると、いつも通りの表情だった。
「昔はかわいらしー酒しか飲めなかったのにな。」
ちょうどウィスキー・オン・ザ・ロックに口付けたところだったので思わず吹き出しそうになる。そういえば口内に広がるこの風味が昔は苦手だった。
「そうかも。就職してからビール飲めるようになって、あとは自然とね。」
自分から言い始めたくせにさも興味なさそうに「ふうん」と相槌を打って、靖友がコロナビールを飲み干した。「次は?」と訊くと「同じの」と答えられたのでバーテンを呼びコロナとカルーアミルクを注文すると、靖友がぎょっとして私を見る。何か言いたそうにしている彼を笑って制し、世間話をしているうちにビールとカルーアがほぼ同時にテーブルに置かれた。グラスを掲げてから一口飲んで今一度にこりと笑いかける。
「どう?記憶通り?」 「…老けたネ。」 「靖くんだって同い年でしょ。」
靖友がくつくつ笑う。目を細めて可笑しそうにする彼を眺めていると存外優しい声になった。幸福な時間だった。そして楽しければ楽しいほど時が過ぎるのは早い。あっという間に終電の時間になってしまい、私たちは新橋駅まで戻ってきた。思えば靖友と会うようになって電車で帰るのは初めてのことだ。わざわざ改札まで見送ってくれ嬉しかったが、同時にその気遣いに複雑な思いを抱いた。過去があるのはどちらかというと私の方なのに変に勘ぐってしまう。
「また、ごはん行こうね。」 「んだよ、急にしおらしくしやがって。」 「だって、今日楽しかったから。」 「ソ、そりゃあよかった。」
靖友が動じないのでそれがほんの少しだけ癪に障った。こういうときはどうしても困らせたくなってしまう。
「今度靖くんち行きたい。」
冗談っぽく本音を言うのは私のずるいところだと以前指摘されたことがある。なにかと予防線を張りたがるのは性分なのだ。しかしそれからというもの駆け引きのテクニックとして意図的にそうするようになってしまった。
「ダメだつってんだろ。」 「いいよって言うまで帰んない。」
しつこく駄々をこねてイエスの返事を引き出そうとする。威圧目的の舌打ちにもめげずになお靖友を見上げていると、ついにぞんざいではあるが「分ぁったよ、また今度ネ」と返された。それでも私は満足しない。
「絶対嘘だ、テキトーに言ってる。」 「だあぁぁ、うっせーな!さっさと帰れこのボケナス!」
靖友の手が顔に迫ってきたかと思えば鋭い痛みが走った。デコピンだ。でもその痛みがとても懐かしかった。
「痛ぁい!ちょっとくらい力の加減考えてよね。」 「おめーがしつけーからだろ。ホレ、とっとと帰れ!」
そう言いながら背中を叩く力は程よく、また胸が少し狭くなる。「やっぱり靖くんだって変わった」とはあえて言わずに「今度は靖くんから誘ってね。」と言い残して、改札を抜ける。靖友がしっしと動物を追い払うように手を振ったのが可笑しくて手を振り返してからホームへの階段を上った。
ふわふわした気持ちになっていのるのはお酒のせいだけではない。私の身体を地面から引き離そうと心臓のすぐ下あたりで恋の浮力が発生しているのが自分でもしっかりと分かった。別れたこの瞬間から次のことを期待して連絡を待つ感覚、「ああ、恋をしてるんだなぁ」と改めて思った。電車の窓ガラスに映る自分の頬が緩んでいるのに気付いたが、そのまま余韻を楽しむことにした。
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