友人あるいは元カノ | ナノ

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 広くはないバスルームにイランイランの香りが充満している。このところ半身浴はおろか湯船に浸かる時間すら取れていなかったので、こんな風にゆっくりと入浴するのは久しぶりのことだった。コンペをなんとか納め、打ち上げも終わり、来週からは比較的時間に余裕ができる。無事にこの日を迎えられたのは秋の人事異動で課長が配置換えになったのが大きい。代わりに来た新しい課長――横浜支社から転勤になった陽気な人。四十を過ぎているらしいが、とてもそうは見えない――は噂に違わず、やり手の所謂できる上司だった。上が変わればこうも変わるのかと、彼の手腕にはつくづく感心させられた。配属されたばかりだったといのにあっという間に課の雰囲気に馴染んでしまったのは彼の人柄なのだろう。彼のおかげで日付が変わる前に入浴することができるのだから課長様々である。

 アロマバスをするにあたって私が選んだ精油はやはりイランイラン、昔から好きな匂いだ。不安や緊張をほぐしてくれ、リラックスというよりも楽しい気分にさせてくれるのだと大学時代に知り、それから愛用している。濃厚で甘いその香りには真偽のほどは確かではないが、恋を促進する効果があるらしい。今の私にぴったりの匂いだ。


『荒北って彼女いたんだっけ?てっきりあんたへの思いを四年間突き通したのかと思ってたけど。』

 同期マネージャーのメールを一言一句覚えている。からっとした性格の彼女は私の苦悩を知る由もないだろう。あの発言だって大した意味も信憑性もない、なんならただの冗談だったかもしれない。私はそのメールの返事を一か月たった今でも考えている。


 分かっていた。なぜ私がこんなにもあのメールにこだわっているのか。あれを真実だと信じたいのは誰よりも私自身だからだ。仕事が忙しかった二か月間、一目も会えず声も聞けぬ靖友のことばかり考えていた。今何をしているのだろう。私を恋しく思ってくれているだろうか。暇さえあればそんなことばかりが思い浮かんで、そして消えていった。そろそろ認める時が来たのかもしれない。自分でも信じられないが、恐らくそういうことなのだと思う。靖友を誘い続けたのは彼が好きだからだ。そして彼が私の誘いに乗るのもまた同じ理由であればいいと願っている。


 恋とは、はからずして落ちるものだとどこかで――雑誌のコラムだかエッセイだったと記憶している――目にしたことがある。今までの恋はどうだっただろうか――正直よく覚えていない。付き合っていたときの思い出はぼんやりと残っているが、どういうきっかけで好きになり、付き合うに至ったのかはっきりと覚えている恋は一つもなかった。大学時代は数人の男子と付き合ったがどれも長続きせず、社会人になってからも多少は長い付き合いもあったものの概ね同様だった。今まで何人の男と付き合ったか指折りで数えてみる。六人、多いのか少ないのか分からない。けれど靖友よりも多いのは確かだろう。大学のとき、靖友はずっと奈緒と付き合っていた。

 奈緒のこともあまりよく覚えていない。一度だけ三人で食事をしたことがあったが、どういう流れでそうなったのか、そのときどんな話をしたのか、全く覚えていなかった。自分の記憶力の悪さにはほとほと辟易する。奈緒の苗字さえ思い出せればSNSで検索することも可能なのに、というのは流石に悪趣味だろうか。靖友の友人欄にはナオという名前の女性は見当たらなかった。二人が完全に切れてしまっていると知ってほっとした私は性格の悪い女だ。

 私たちはティーンエイジャーではない。元カノや元カレの存在は仕方のないことだと割り切っているつもりでも完全に無視することはできなかった。それが知人であるなら尚更だ。追究は控えたが、少なくとも三年以上付き合った二人が別れる理由が気にならないはずがない。一番長かった相手とも二年足らずしか続かなかった私は知る由もない領域だ。それでも、経験則で分かっていた。人間は長く交際した異性に少なからず影響される。好みや価値観、性格に至るまで長く付き合えば付き合うほど相手に染まってくものだ。そして都合の悪いことにその後の生き方にまで影響を及ぼす。直近の元カレがまさにそうだった。直接的に口にすることはなかったが、私は常に元カノと比べられていた。恋愛遍歴帳はどうあがいてもまっさらにはならないのだから仕方がない。別れても付き合っていた事実は消えることはなく、生涯背負う必要がある。遍歴帳が人より埋まっていることは同性には誇れる要素なのかもしれないが、異性、特に好きな人には知られたくない弱みだ。


 湯が冷めてきた。風呂に浸かり続けて一時間ほど経過していた。そろそろ上がらねばならない。
 靖友は私を好きだったという。確かな情報筋ではないから、その可能性があるといったところか。しかし大切なのは今だ。嫌われていない自信はある。仲の良い友人だと胸を張って言える。ただ私の好意と彼のそれが同じ種類のものなのか、はたまた違う種類のものなのか。そして、私自身どうしたいのか――最後は愚問かもしれない。



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