明日のためにゆりかごを編む

「───ッッッいっきし!!」
「なんて?」

 盛大にくしゃみをした。
 顔を逸らしたとて大きな声でしてしまったものだから椅子で寛ぐ哀ちゃんに冷めた目で見られた。はずかしい。
 生理現象だけれども……埃か何かが鼻にでも入っちゃったんかな。ポケットからティッシュを数枚取り出し、ずびずびと鼻をすする。風邪は引いていないはず。体が弱いからそれ系に関しては敏感なつもりなので、誰かに噂された可能性が浮かんだ。噂されるとくしゃみをするのを聞いたことがある。

「……あなた、」

 くるくるとまとめて屑籠に放り投げたら、前から呼びかけがあった。「んー?」どうやら読んでいた本を膝に置いていて、その年齢の女の子にそぐわぬ鋭利な光が宿る視線を向けられる。

「案外図太いのね。普通、血縁の命が脅かされてるなんて聞いたらいてもたってもいられないじゃない」
「あー……まあ、それはそうだね」

 寄越されたのはいつか聞かれるだろうと予測していた問いかけ。問いかけというより、呆れを含んだものか。

 工藤ゆかりは工藤新一の双子の姉。体が弱くて、母親譲りの容姿を持つ帝丹高校二年生。経歴は日本警察の救世主と言われる双子と較べるとぱっとしないものではあれど、親しい友人たちとの交流を大事にしながら静かに穏やかに日常を過ごす───要するに、日向しか知らぬ一般人。傍目から見たらそう思われるだろう。
 表面上は、そうだろう。

 私はふたつの秘密を保持している。

 まず、目の前で探りを入れる灰原哀ちゃんこと宮野志保と同様に、弟と彼女の本来の姿を知っている事実。哀ちゃん曰く、『家宅調査の際にいなくてよかったわね。組織に見つかってたら吐くまで拷問されてたかもしれないし』……らしい。こっっわ。とはいいつつ自分自身の意思でコナンを問い詰め(正確には知識として理解していた)彼から聞いたのだから、己の保身のために怯えるのは何かが違う。
 そして、今のところどんな相手でも告げる気はない三つの人生のこと。苗字を思い出そうとしても靄がかかったように黒く塗りつぶされた最初のゆかりと、めいっぱいの愛を注ぎ注がれた葦原ゆかり、三番目の工藤ゆかりいま。それぞれで経験した出来事や知識は遺憾無く発揮できており、肉体の共有だけが不完全だった。
 無関係とは言いづらい。だから、不思議と慌てるつもりはなかった。

「慌てたところで、好転するわけでもなし。
 立ちはだかるものはその時その時に全力で向かっていけばなんとかなるよ」
「……楽観的」
「そうともいう。でも、私は信じるしかないから」

 真実にまっすぐで、人を懐に入れてしまえば甘々な新一を。
 「失敗すれば」苦々しい声が前から届く。

「殺されてしまうかもしれないのに?」

 抑揚がほんの少ししかない、哀ちゃん特有の声が飛ぶ。
 瞬時に意味を理解できず、数度、目を瞬かせた。彼女が心底呆れた雰囲気を滲ませてから小さな手で拳銃の形を作り、それを左胸へ、───引き金を引くふりをした。
 そこでようやく、哀ちゃんの言いたいことを理解しても尚、きょとんとする。
 ほんとうにわからなかった。だから思案する。

 鮮明に焼き付けられた、振り上げられる凶器の切っ先。澱んだ瞳は焦点が合ってなくて、突き立てられた下腹部の痛みは今でも思い出せる。すえの匂い。胃からせり上がった鉄臭い血の味。

 はた、と気づく。気づかざるを得なかった。

 分かってしまえば簡単だ。
 ────だって私は一度死んでいる。

 死、というものを経験してしまっている。巡る血液が止まるとか、寒いだとか、何も見えなくなるとか。……思えば、人間が想像しようにも限界がある死の概念を私は知っていて、持ち越したまま二度目の人生を歩んでいるのか。一度きりの人生とはよく言うものの。

「工藤さん?」
「あっ……だ、大丈夫。なんとなく、そう、なんとなく!」
「なによ、それ」

 自分でもこじつけにも等しい言葉だなぁとは思うよ。
 けど私死んだことあるんですー、なんて言えるはずがない。

「哀ちゃんもさ、覚悟、決めたんでしょう」
「……工藤くんから聞いたの?」
「女の勘」
「…………ほんとに、わからない人」

 素の態度でため息を吐く哀ちゃんは、初めて出会った頃より随分と血色が良くなってきた。蘭ちゃんとの交流や、歩美ちゃんの言葉で逃げないと決めて、FBIの証人保護プログラムを断ったり。
 こんな華奢な女の子が背負っていい運命じゃない。だけどそれから逃がしてあげられる手立てを、私は持っていない。私にできるのは、コナンの指示を完璧に実行して彼女とその周りを、新一をサポートして危機をくぐり抜けさせることだけだった。

 そう。
 本格的に黒ずくめの組織を調べるにあたって、私は哀ちゃんも含めたコナンとの三者面談を行った。成人だった葦原時代と違って一介の高校生ができることは限られており、僅かな無理をしただけで体調を崩しやすい体質を考慮して実行部隊ではなく、前述したサポートを第一とした後方支援、即ち彼らがスムーズに動きやすいように物を用意したりする方へ回された。想像の範疇だった。見た目が幼い彼らに任せきりな部分はおいおい、というより絶対に恩を返すことに決めてその場は頷いた。
 子供の姿だったから切り抜けられた場面はこれまでにも数多くある。あまり文句はなかった。

「あ、紅茶のおかわりいる?」
「いただくわ」

 私にやれることを、全て。
 既に漫画の知識は遠くて、最低限のものしか覚えていなくて。
 温かい紅茶が入ったカップに口をつけて、普通に飲んで、普通に生活できるはずのこの女の子が、何事もなく幸福に生きられるよう、最大限努力をする。
 見つけなくてはならないから。
 望み薄だと分かってても、それが絶対に彼≠フために繋がると。

 ただ。

 ……ただいつか、いつか新一と志保ちゃんたちと敵対することだってある。お互いに隠し事があって、話せることは指折り数えた方が早いほど。そうなった時。どちらかの手しか取れない状況に陥った時、私は。

(わたしは、どちらの手を取るのだろう)

 葦原ゆかりは降谷零。
 工藤ゆかりは──育ち共に生活した思い出がある。

 いまは、答えは出そうにもなかった。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -