少女は祭壇へ横たわり白い肌を晒す
悪夢だ。認めたくない、信じ難い、悪夢だった。
漠然と、自分の大切な人は明日も明後日も一年後も、健やかに生きていそうな自信があった。
ニュースでやるような凶事とは無縁の優しい世界で、息をしていると。それから自分の傍で笑いかけてくれると。信じて疑わなかった。
───そんかものは単なる希望的観測でしかないことを最悪の形で突きつけられたのは、あの日。上機嫌に遠くですれ違った恋人の姿に、自身の誕生日プレゼントを買ったんだなぁ、と呑気に考えていた一瞬を
皮肉なことに彼女が好きだと言っていた赤いアネモネのように鮮紅に身を落とした俺の恋人は、見知らぬ人に看取られ死んだ。
騒ぎが大きくなり、目指す職業柄、耳で拾った女性が刺されたという声に嫌な予感はした。杞憂であればいい、勘違いであればいい、何度も何度も違うと拒絶してみても飛び込んだ先に見えたのは───先程記憶した背格好と同じ、以前のショッピングデートで贈った衣服に体を包む
意味が分からない。何故、どうして。
彼女がどうしてそこに横たわっている
嗚呼、煩い。
金切り声で悲鳴をあげる女性の叫びも、
───うるさいうるさいうるさいうるさい!
いつの間に振り抜いたのか、痺れる痛みに数瞬我に返った。
足元には泡を吹いて痙攣を起こす男の肉体があり、ハッと周りの喧騒が取り囲む方へ目をやる。
「───…………ゆかり!!」
日本人を体現する黒い目が、まだ僅かに生気のある瞳が、俺を見ていた。彼女の名前がこぼれ落ちる。
腕を伸ばす。とどけ、とどけ。
恨めしいほどに近くて遠い距離。さながら出来の悪い映画みたいだ。
スローモーション、ゆかりのまっしろい腕が届くことなく、ぐったりと地面に落ちていく。「な、んで……」留めおけない呟きがこびりつく喉奥から堰を切ったように溢れていった。
……そばにいたいと、俺と
好きだった。大好きだった。愛している。警察学校を卒業して、安定した立場と収入を得たら必ず婚約の申し込みをするんだと、同期たちに紹介はまだだったがそれを告げるぐらいには、葦原ゆかりとの未来を望んでいた。
きっと、ゆかりだってそうだった。
だけど、
そんな日はもう二度と来ない。幸せに生きるはずだった明日を奪われた彼女は、今ここで、俺の腕の中から消えていった。
「あ、……ああ」人目についても構わない。眦が熱い。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
胸が張り裂ける。痛い、痛い、痛い。
その痛み以上をゆかりは受けた。こんなもの、彼女と比べたら、比べたら。
喉を掻きむしる。誰かに止められた。誰だろうと関係ない。彼女が届かない場所にいってしまった。
やがて。
ひときわ強く腕を掴んできたのは、悲痛の面持ちを隠すことなく膝をついた彼女の父親。何も聴こえなかったのが嘘のように、低い声が鼓膜に流れ込んだ。「ふるやくん」……そうだ、彼はこんな声だった。震えていた。
「ふるやくん、…降谷くん」
そのまま力強く抱きしめられ、ぎゅうぎゅうと胸元に頭を寄せられる。
途端に過ぎる、溢れすぎる、彼女との思い出。
肩甲骨まで伸びた黒髪が風に靡いて振り向く様、普段は冷静で大人しめなくせに斜め上に猪突猛進な性格、眉尻を下げて自惚れなんてものじゃなく、俺を好きでいてくれる笑顔。
ぜんぶ、ぜんぶ、宝物で愛しいもの。
幾度も叫んだ。何回も、名前を呼んだ。
答えはなかった。
骨となり、墓下に埋められる彼女の小さな小さな体のこと。ほんとうに、小さくなってしまった。
景も泣いていた。みんな泣いていた。
俺は、彼女の眠る地を有する日本を、
僕の日本を、誰よりも守る。守って、守って、
守り抜いた果てにはきみとおなじ許へ走ってもいいか、なんて。
その問いさえ、彼女には響かない。
悪夢だ。悪い夢だと思いたいのに、鼻につく焼香の匂いが現実だと茨に変化して足を絡めとっていた。
遺影のきみは、思い出の中のきみと同じ笑顔だった。
───漠然と、自分の大切な人は明日も明後日も一年後も、健やかに生きていそうな自信があった。
まやかしで、自分の都合のいい幻想だった、いつかの希望だった。