花冷えの幽か

 阿笠博士の家を出てしばらく。

 予想通り空を覆っていた鈍色の雲からは大粒の雨が降り始めていた。駅前だからか多種多様の傘群が伺え、コンクリートに出来上がった水溜まりには行き交う人々を鏡のように反射している。
 仕事帰りのサラリーマン、携帯に目を落として歩く大学生、傘を持たない家族を迎えに来る親御さん。自立して自分の足でどこへでも行けてしまう彼らの姿は、元恋人の言葉を借りるなら守るべきものたち≠セ。あ、あの男の子となりの女の子と手を繋ぎたがってる。初々しいな。

 ───米花駅。

 たくさんの人間が使用する場所で、黒澤屋と呼ばれるデバートも参入しているそれなりに大きな駅。…それから。

(……、………葦原ゆかりが、死んだ場所)

 はっきりと思い起こせる下腹部の痛みと、冷えきって、死んでいく体をどこか客観視していたあの時の記憶。幸いにも極度な恐怖やらトラウマやらは発症しなかったようで、ザァザァと降りしきる雨を眺めていた。
 当初の目的であった投函は一分もかからず終わり、記憶にある駅景観とさほど変わりない改札口の横で私はあるものに気がつく。駅近くにはフラワーショップもあった。
 飛沫した血痕は綺麗になっていたけれど、死に場所を忘れることなんてありえなくて。小ぶりな花が可愛らしい花壇の前、雨対策なのか透明なビニールに包まれ鮮やかな花束が置かれている。……献花、かな。
 ここで死んだので、どのようにして報道されたのかは知らなかった。詳細を読み込んだのもさっきだから。その後の何もかも、私は知らない。週刊誌の一面に被害者の実名、年齢、職業などがまるで手向けの言葉のように記されていて、本人なのに本当に死んだんだなぁとあまりにも他人事みたいな反応になってしまうのはご愛嬌。死んでしまえば人はそこでおしまいなのに、こうして、人生なにが起きるか分かったものじゃない出来事が起きている。
 犯人は正当防衛が認められた一般人に顎を殴打され、意識不明の重体にこそ陥ったが目を覚ましたところで逮捕された。……一般人つよくない? ボクサーの人にでも襲いかかったんか。

 人の往来が僅かに途切れた頃を見計らって、7年前からあるフラワーショップで花を買った。迷わず、白百合と胡蝶蘭を選んだ。なんだかおかしなことをしている気分だった。

「だって自分に自分で献花だもの、傍目からすると知り合いへかなとは思われそうだけどね」

 店員さんの気遣いでビニールに触れた花びらがかさりと音を立てて、二束あるその右に置いた。洋服が濡れぬよう注意しながら屈みこんで、肩で傘を支えて手を揃える。合掌。
 ……やっぱり、変な気分だ。
 死んだのは私で、いま献花しているのも私。
 うん、変だ。
 でも不思議とやめるつもりはなくて、理由を探してもぼやぼやとした空気がすり抜けるようで、こっちも不明なまま小首を傾げた。

 石畳を叩く雨音の音量は増すばかり。
 支えた傘が周りと自分との世界を遮断する防波堤のようで、耳を澄ませば聞こえてくる誰かの話し声でさえかき消し、私は数分だけ、と言い訳を誰にするのでもなく目を閉じる。人は、視界を閉じると聴覚が良くなる話を聴く。確かに、そうだった。

 水溜まりに足を突っ込む無数の音、一定の長さで鼓膜に入り込む落ち着く音、
 段々と近づいてくる、足音。
 
 ……、
 …………ちょっと待った。

 見過ごせない違和感を感じ、ゆるりと振り返る。屈んだ状態では革靴の先端しか見えなくて、緩慢と立ち上がった。
 私以外の献花をしに来た人だろうか、横にズレようか。「すみません、邪魔ですよね」「いえ」

 低くて抑揚のない、男の人の声だ。

 傘を傾けて上を見る。黒い髪、黒い目、日本人ならではの色に心のどこかで安堵に胸を撫で下ろした。私の知り合いでは、ない。しかし7年経っても気にかけてくれる見知らぬ人がいてもおかしくないのでそろそろ帰ろうかと思案し、視線を横へ逸らしかけて、長身の男の人の手元の花に釘付けになる。
 ここは公の場ではなかった。暗黙の了解として白い花が妥当とされているだけで、特に指摘すべき点もない。ないはずだった。

「アネモネ、ですか?」

 それが、──ゆかりの好きな花ではなかったら。

「ええ。この方がお好きだと聞いてましたから」
「そうなんですね……。あの、もしかして、」

 どなたかの代理でこちらにいらしたんです?

 私の問いかけに男の人はぴくりと眉を震わせ、持っていた花を白百合の隣へ置いて、黙り込んでしまった。
 気にしてはダメだったのかも。アネモネが好きだということを友人に聞いて置きに来てくれただけかもしれないのに、想像たくましかった、反省。男の人も先程のコナンに対しての私がした対応のように曖昧に口を開いては、噤んで眦を下げていた。
 手向けられた花の矛先がいくらゆかりわたしでも、軽率な行動だった。そう思い直し謝罪をして、その男の人と別れた。


 すれ違いざま、じっと見られる気配があったが大して気にせず帰路を急いだ。


***


 ぱしゃん、とどこかで雨音が響いた気がした。



 雨は降りやまず、長く続く影響で霧が深くなってきている。
 米花町を通り抜ける国道は多く、意外にも利便性は他県よりも比較的高い。それに伴って親子連れなどが休憩できるような公園がいくつか点在していた。
 いつもは人影もあり活気づいてても雨による弊害で、その男が敷地内に踏み込んでも辺りには人の気配はない。不気味だと、薄気味悪いと感じるのが普通だろう。が、男にとってはこの空間が好都合だった。

 所作は控えめに、されど注意深く警戒を怠らず。

 やがて胸ポケットから携帯を取り出し、秘匿される内情のために連絡先登録が許されぬ相手の番号を素早く打ち込み、発信ボタンを押し込んだ。

 コール音が鳴らなければしばらく間を置いて再度かけ直し。
 鳴るというのは彼≠ェ手隙であるという事実。

 果たして今回は───後者だったようだ。ぴったり三コール目で『どうした』応えがあった。

「……お疲れ様です、降谷さん。お忙しいところ大変申し訳ありませんが───アネモネの花についてのご報告とお伺いしたい点が一つ……」

 道は思わぬ地点で交錯するものだ。
 それがたとえ両者が意図しない形であれ、望まぬものであっても。


 対面の刻は遠く。動き出した残滓を拾い上げる人が誰であろうと、情け容赦なく、時は進んでいく。




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