からっぽの空

 あの日は雨が降っていた。

 ……いや、雪が降っていた。

 違う。晴れていたかもしれない。

 そういえば曇りだったかもしれない。

 そもそももしかしたら天気なんて、確認できなかったかもしれない。
 それくらい、あやふやで、何もかも曖昧な…自分の過去の記憶だともはっきり言えない、そんな夢の中でわたしはある一人の肉体を借りて光景を見ていた。

 今となっては物珍しい民族風衣装に身を包み、子供ながらに気を緩めては駄目だと感じ取る幼子は、きっと、たぶんわたし。
 そう、わたしは。……この日強く強く、何かに、手放してはいけない大切な誰かに腕を引かれ疲れても、どんなに足が痛くても何度でも立ち上がらされ、どこかへ向かおうとしていた気がする。
 でも、辺りを隠すかのように充満する灰色の波は幼子の姿だけをその場に残し、周囲のものを遠ざけていた。効力は、ご覧の通り。自分が誰なのかを知りたいのに輪郭すら覚束ない、悲しくて、寂しくて、からっぽな夢。何に、誰に手を引かれていたのだろう。どこへ向かっていたのだろう。……どうして、恐怖を張りつけた顔で逃げているのだろう。

 知りたいのに、知れない。知りたいのに、教えてくれない。

 夢は、それ以上の侵入を拒んだ。まるで行くなと、踏み入れば二度と戻れないのだぞと警告のように、決して辿り着けない彼方。合ってはいるんだと思う。そっちにわたしが失くした全てがあると、分かる。
 でも、なにかが足りない。
 取り戻すための鍵、思い、覚悟……なんでもいい。封じられた記憶を抱こうとする度、弾かれるのは、根拠も確証もないけどきっとそう。

 そうして、ふたたび。

「起きて、ねえ。……起きて」

 ほら今日も、現実を告げるひだまりの声が、定刻をもたらした。
 こうなると自力で立ち上がることはもはや、身動ぎひとつさえとれなくなる。見えない底に落ちていく感覚に身を委ね、今度は伸ばされるやさしい指先に届かせるために、自らも指を伸ばした。

 緩慢な動作で天に伸ばした手が、同時に下ろされる誰かの指に触れかけて──。

「あっ、やっと起きた」
「…………、……エアリス、おはよう」

 目を覚ます。暖かな茶色の天井を背に、上体を前に倒してわたしを見つめる存在へ挨拶を言う。すると彼女は呆れた素振りを見せ、ため息をついた。「もう、おはようじゃない、でしょ」その言葉にゆるりと首を回して、時間を確認する。

「わ、13時」
「いくらなんでも寝過ぎ。体調悪いのかと、お母さんと心配したの」
「えへへ、ごめーん」

 わざとおちょくってみせると、ようやくエアリスも笑ってくれた。
 わたしもベッドから起き上がり、普段着へ。その間も待ってくれていたことにお礼を述べて、階下へとおりる。可愛らしいデザインと小物で統一されたあたたかなリビングには、心配を隠そうとしないお母さんの姿を見つけた。

「顔を見る限り、平気そうだね」
「聞いてよお母さん、ラフィってば、全然起きなかった」
「あっちょ、告げ口ヤメテ」

 くすくす笑うお母さんにはお見通しかもしれないけど、恥ずかしさってものがありましてですね。

 用意してくれている食卓に腰掛ける。その両隣にエアリスとお母さんが座り、……え、なに、フォーメーション組んでる? 困惑げに隣を見遣れば、いつになく穏やかな表情の母がいて。

「なんだい、昨夜夜更かしでもしてたのかい。それにしては、灯りはなかったと思うけど」
「あー……ちょっと寝付けなかっただけ。だいじょうぶだいじょうぶ、体調はすっごい元気!」
「なら、いいんだけどねぇ」
「また最近治安も悪いし、あまり無茶するんじゃないよ」
「治安、……って、昨日の壱番魔晄炉爆破事件のこと?」

 口にスプーンを含み、問いかければ何故か二人同時に頷かれる。スラムに設置されたテレビから流れるニュースで知っていたけれど、事態はもっと深刻なんだとか。
 七番街スラムに貼られたポスターは、一応わたしも見たことがある。星の命、魔晄、神羅、……過激派のアバランチが爆破したのだと、人の噂で聞いた。神羅は毛程にも信用できやしないが、目的のためなら手段を選ばず罪のない人間を犠牲にする彼らのやり方も……どちらかといえば、わたしは、苦手だ。

「そう。スラムの周囲にいる神羅兵、ぴりぴり」
「……そっか。しばらく壱番街には近づかないし、遠くまで行かないよ」

 肩をすくめるエアリスに同調するように安心させてあげるために微笑めば、お母さんは少なからず安堵したみたいだ。
 そう思えば右側に座っている彼女が今度は「はい!」と手を上げ打診する。

「でも、スラムの教会はいいでしょ? 昨日、行けてないんだ」
「ちゃんと逃げたり、身を守りながらなら」
「はーい!」

 圧じゃないけど、こう、それに似た何かでゴリ押しするエアリスに苦笑いをうかべる。この時間からなら何事もなければ数時間で帰れそうだ。ごっくんと食べ終えた食器を流しに浸けつつ、教会用のバスケットに軍手を突っ込む。
 そうして窓を開き、空の方角を見遣る。地上50メートルに作られたプレートのせいで本物の空を見た覚えはない。

「ラフィ〜? もういっちゃうよー」
「今行く! じゃあ、お母さんいってきます」
「わたしも、いってきます」
「うん、いってらっしゃい。気をつけて」

 玄関まで見送ってくれるお母さんを振り返りながら、声を出す。

 見上げても空なんてものは見えやしない。だけれども、心は晴天で、すっきりとした感覚だった。




 ───まだ、知らない。この先に待ち受ける出逢いがわたしの真実を明るみにさせる運命なんて、まだ、知る由もなかった。

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