甲殻に隠れた甘露

「あのっ、ほんと、ほんとどうしたんですか太宰さん!?」
「あーはいはい暴れないの。どうしたのって云われてもねえ、私は夜這いに来ただけだよお」
「だけ!? 立派におかしくなってますよ、っわ、ぁ!?」

 ばたばたがらがらんっ
 言葉にすれば割と愉快な音を響かせ乍ら、あとは寝るだけだと敷いてある布団にご都合宜しく背中から倒れ込むも、それすらも見越していたのか自然な動作で後頭部に添えられた手が恨めしい。まあ普通に考えたら、比較的女性には可也甘めで紳士(真摯、ではないが)な太宰さんが簡単に怪我をさせるはずがないのだけれど。
 否、否、そうじゃない。そうじゃないよ。
 待って、待ってください勝手に許可なく人の上に四つん這いになるんじゃありませんっちょ、どこ触って!

「だっ、太宰さん誰かと間違えてません!? 任務帰りで気が昂ってるのは判りますが勢いのまま事を進めると後日後悔しますよ!? 私ですってば!」

 このままでは好きに喰い荒らされるという女としての本能が碌に脳内で精査せず、いつもなら踏みとどまれるであろう言葉がぽんぽんと口から飛び出した。でも否定も云い繕いもできず、まるで猫のようなしなやかさを持って手首を拘束する太宰さんに吼える。
 処女だから? んなわけないわこんな情報が命よりも価値のある世界で初めては好きな人と〜なぁんて夢みたいなことはない! 寧ろ武器として扱っている始末だけれど、少なくとも話すことの多い同僚で上司の人と性行為に耽るのは私が耐えきれない。……じたばた、じたばた。だがいくら体術が中の下と云われる太宰さんとはいえ、それは男の中でのことである。接近戦を主としない私では、月とすっぽんの差があり、現に太宰さんは逃れようともがくしょうがない女を呆れるどころか、子供や犬が玩具に戯れる様子を微笑ましく見る親の如く見下ろしている。
 かと思えば、片目が隠された鳶色の眼差しに、混じってはいけない色が過ぎるのを見てしまい、情けなく喉奥からひえっ、と悲鳴じみた声が漏れる。間違いない、完全に何か地雷を踏んだ。

「ねーぇ、名前ちゃん?」
「はっ、はいぃ……」
「慥か名前ちゃんは私の秘書さんだよね」

 あっ無理。この顔は、だめだ。
 冷や汗が垂れる私の頬から首筋にかけて、細長く骨張った指が蠱惑げに這いぞわぞわと一寸これは不味い感覚が肉体を駆け巡る。
 上司への反抗意思は裏社会ではご法度だ。否定に取れる言葉なんて吐き出せず、尚且つ利益や貢献は兎も角もう何年も闇に浸っている長年の経験から云って、確実にあかん顔つきの太宰さんに頬が盛大に引き攣るのを感じた。
 この顔は見たことがある。否、見たどころか任務中は基本的に拝見することのある……余り今の状況では可也宜しくない雰囲気のそれであって……。

「───じゃあ、私が発散のために同じ女のところへ行かないってこと、識ってるよね?」

 思考を放棄したかった。なんだったら迚も女性とは思えない濁音の混ざった奇声をあげ、顔を両手で覆って転がり落ちたかった。そんなこと己が従うべき首領に次いで、絶対的な統率者たる太宰さんの前で出来るはずがないが。
 少し頭を回転させれば一目散に出てくる事実を突きつけられ、尚且つこの押し倒された状況にも意味があるのだと言われたようなものなのだ。声にもならぬ呻きを洩らす私を置き去りにして、太宰さんは続ける。「変な期待を持たせないためにもね」

「夜這いだって、私の柄じゃないからさ。……却説、此処で問題です」

 酷く逃げ出したい。
 問題です、と普通のように云ってはいるがその実双眸にある光は間違いなく危ない。

「平日の夜更け、上司部下の関係を私がぶち破ろうとしてまで、君を押し倒している理由は一体なんでしょう? 10秒で答えてね」
「10秒!?」
「はい、いーち、にぃーい……」
「えっあの、え!?」

 敢えて、敢えて正直に云わせてもらうとするのならば。知ったこっちゃないのである。
 けれど悲しきかな。今太宰さんが述べたように、私と太宰さんの関係は覆らない上下関係があり、決して逆らえないのだ。逆らってもあわよくば命だけは見逃してくれそうな気はするが、危ない橋を態々渡りに行くほど私に度胸はない。寧ろ心臓に氷を滑らせる行動をしたくない。

 閑話休題。
 適当に答えてはぐらかす……十割まずい。
 すっとぼけて飽きるのを待つ……太宰さんのことだ、まず飽きることが有り得ない。
 最後、徹頭徹尾誠実に答える。……うん、これが佳い気がしてきた。

「さぁーん、しぃーい」

 え、でもこれ、普通に相手がそうでなければ失礼にあたる言葉であるし、抑も絶対に有り得ないだろうなと自分でも思ってることを吐き捨てるわけだから、……辞世の句遺した方がいいかもしれない。
 問題形式だけど不正解だった時何かするとは一言も仰っていないし、常時携行している拳銃も触れ合ってる箇所から感触はないから殺される心配性はない……はず。幾ら色々佳いとは云い難い所業の噂が流れてきたとはいえ、無闇矢鱈に殺したりなんてしないですよね? 信じますよ!? ───ええい、ままよ!

「っ、だ、」
「だ?」
「太宰さんが、不肖苗字名前のことを好いているから!」
「…………」
「…………」
「………………」
「………な、んて。あ、は、はは」

 無情にも、人生終了の鐘が鳴り響いた。ような気がした。
 ぱちぱちと目を瞬かせる太宰さんは言葉を発さず、ただ私を見下ろし、何かを考えている。
 いっぱい考えた。提示された時間内で最善で大きな博打だったけど、考えた末の答えは冷静になると物凄く自意識過剰が過ぎるもの。死ぬんだったら余り痛くないのがいいな。心配したり悲しむ家族も居ないし、片付けは簡単だろう。
 と、諦めて体の力を抜いてどうにでもなれと太宰さんを見上げる。

「うふふ」

 笑っていた。
 これ以上ない程、上司は笑っている。

「『太宰さんが私のことを好きになる現実なんて、ないない』」
「!?」
「『相手をしている女性はみんな美人だし、太宰さんも美形だからなぁ……あれかな、類は友を呼ぶ?』…だったかな?」
「なんで知って……っ」
「うふ。口のかるぅい子が教えて呉れたよ。だめじゃあないか、自らの秘める気持ちを伝える相手はきちんと見極めないと」

 仕方がなさげに子供を宥める感じに感想を告げる太宰さんを見て、私は割と話す枠に居た一人の友人がどうなったのかを悟ってしまった。
 お喋りは最初に死ぬ。それは外部に漏らすだけじゃない、身内で繰り広げてしまえば信用性を失ってしまうのだ。さらにそれが情報を取り扱う部署の人間ならば、尚のこと。

「嗚呼、先刻の可否だけれど」

 死刑宣告か。案外、短い人生だったな。

「……正解だよ。名前ちゃん、若しかして私を焦らしてたのかい?」
「えっ」

 耳に入り込んだ声の意味が理解できず、きょとんと視線を鳶色のそれと交わらせる。
 嘘をついている瞳じゃなかった。

「周りの話からすると、別に君は私のことを嫌ってはいないし、寧ろ好意的に思っている。仮令恋慕でなくとも、私には関係がない」

 しかし乍ら疑問に思っていることは聞く気がないのか、腰元に添えられていた、ずっと止まっていた指が徐に襯衣の絹紐を解いていく。

「あ、あの……正解ならば、退いてくださっても……」
「どうして? 結局名前ちゃんは私から離れられないし、段階踏まなくとも行き着く果ては同じさ」
「そういうことじゃ、ひっ…ぅ!」

 ぐっ、と性急に襯衣を開かれ、就寝前に着用していた色気のない下着が外気に晒される。しかも、的確に快感を引き出すようになぞられる指先に、あられもない声が出た。
 足をばたつかせようとも、もがいても拘束は解かれるどころか力が増すばかりで何が何だか分からなくて、目の前にいる上司を見つめ続けるしかない。不思議と、今日は無かった。混乱と疑問に包まれても、恐怖はない理由なんて判らない。だけれども、よくよく考えれば、それが屹度答えなのかもしれなかった。

「いただきます」

 それこそ大好物の蟹を前にした面持ちで、太宰さんが手を重ねる。
 さしずめ、今の私は味の素の隣に並べられた蟹料理であり、何をどうしても彼に食べられる運命なのであったのかもしれない。

 ゆるやかに侵入するひんやりとした指先に、私は静かに目を閉じたのだった。


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