短編 | ナノ


花開き、芽吹くこころ



※幼馴染シリーズ
※押し花の話の数時間後/春休み前




 【好き】の感情には、多く種類がある。

 情けないことにそれを知ったのは親父への憎悪だけで生きていたあの頃より、ほんの僅かに余裕が生まれた遅すぎる今だった。お母さんたちに思う『好き』は家族に対するもの、俺にきっかけをくれた緑谷をはじめとしたクラスメイトたちに向ける、おそらく、親愛のそれ。きっと言葉にしたらお人好しなあいつらだから本気で嬉しそうに、笑ってくれるだろう。
 そして視野が狭まり、見えていると思っていたことが何も見えてなくて、人付き合いも疎遠になっていた中学の時。何人かの女子から、すきを告げられたことがある。お世辞にも愛想が良いとは言えない、醜い、火傷痕がある顔をすきになったのだと。だけど、割と最低だったあの日々の俺はなんと答えたんだったか。……ああそうだ。『よく分からない、興味がない』だった。今なら理解できる。彼女たちがどんなに勇気を振り絞ったのか、形は違っても初めて母に再会したような、指先の震えとうるさいくらいの鼓動の早打ち。それを、俺は自分本位なぐちゃぐちゃとした気持ちのまま突っぱねたのだ。
 改めて考えなくとも、人として、最悪だった。
 親父をどう思うのか、自分と、母と、兄姉が受けた仕打ちを、どう昇華させるのか。
 見つめることができるようになったのも、やはり、緑谷たちのおかげで。全部ひっくるめて、俺は1年A組が好きだった。……、……ただ。

 ――――焦凍くん。

 ……ただ、ひとりだけ。
 そうじゃないと、心が叫ぶ奴が、いた。


***


「じゃあ、また明日。本返してくれてありがと」
「ああ……おやすみ」

 おやすみなさい。そう返して女子用エレベータに乗った汐を見送って、なんとなく、すぐにそこから動く気にはなれなかった。夕飯を済ませて、消灯までそれぞれが好きなことをするこの時間帯は、あまり人通りが少ない。ロードワークに出る者、予習復習をする者、友人との会話に花を咲かせる者。いろいろな理由で人影が減る共同エリアを見るのは、すこしだけ、さびしいと思った。
 地に足がついていないような、曖昧で、覚束無い、そんな感覚。
 だけどしわくちゃにならないように柔らかく、優しく包み持っている押し花の栞が繋ぎ止めている。……汐が、俺を大事に、大切にしてくれているのは、もうずっと前から分かっている。彼女は大きくて、色んな気持ちを詰め込んで、少しずつ少しづつ、俺に渡してくれていて、この栞も、その一欠片だった。
 指を開いて、栞を見つめる。静かに咲いた赤い花弁を、素直にきれいだと思えた。
「…………汐、」
 彼女はこうも言っていた。真っ赤で、いつもまっすぐで、いつもみんなを守ってくれる綺麗な焦凍くんの赤に惹かれたのだ、と。汐に思ってくれること、本当に嬉しい。同時に、いつも優しくて、いつも守ろうとしてくれる汐の方こそ、そうなんじゃねえのかと、感じた。
 流石に長時間ここに居ても意味はないから、さびしさを紛らわすために走りに行こうと足先を動かしかけて、視界に緑色が映り「緑谷、」と口からこぼれる。
「轟くん、どうしたの。伊月さんとお話してなかった?」
「してた、でももう済んだ」
「あ、ならロードワークに行く感じだった?ごめんね、引き止めて」
「いや……」
 相変わらず対人関係をすっ飛ばして成長したせいか、言われるまでもなく何かの話題で盛り上がるのは苦手だ。
 でも緑谷と話していると、何故だか話す気のない内容まで口に出てしまっているのだから、緑谷は不思議な奴だった。「なあ、緑谷」
「……自分ですら、今更で、思う資格なんてないと知ってる心を、他の連中ならどうしてんだ。緑谷だったら、どうする」
 何を言っているのか、きょとんと目を瞬かせた緑谷を見るまで気づかなかった。取り消しはできない。お人好しで、人のために、全力で怒れるこいつだから、俺はたぶん、聞いたのだ。
 ――好きには、種類がある。お母さんや姉さん、夏兄に向けるそれと、友人たちに向けるそれ。それから、もうひとつ。ちいせえ頃はそうじゃなかったと言い切れるこの気持ちは、中学時代に告げてきてくれた女子たちが抱いたものと、同じ名前がつくのだろう。積み重ねも、もちろんある。汐は何も見ようとしてこなかった俺に理不尽な怒りをぶつけられても、離れていかなかった。本人は怖気付いて一瞬逃げてしまったとふたりで向き合った際に言っていたが、あれは、あれだけで収まったことを、俺は感謝しなければならない。それほどまでに俺は汐に辛くあたり、あの青い双眸から、逃げていたのだから。
「えっと、その、僕は轟くんじゃないから、いま君が何を考えてるのか何を思ってるのか、当然だけど知らない。それでもいい?」
「構わねぇ」
 どこまでも、緑谷は真面目で、律儀だった。彼は腕を組みながら、相手の心に寄り添うように。やがて、まっすぐ見据える。
「轟くんが生きてきた環境とかを考えると、そうだな、……君の心が、ゆっくりだけど、休んで、羽化しつつある、のかもしれない」
「羽化……」
「立場とか、清算とか、僕だったらなんじゃなくて。うん、僕は、そう思えた僕自身の心を大事にしたいかな。お節介かもだけど、大切に、大事に抱きしめていたい」
 瞬間、脳裏に、過ぎる。
 まだ俺が無知で弱くて、純粋に、お母さんと一緒に遊びに来ていた汐を迎えに行って、時間の許す限りたくさん話をしてそばにいた記憶。親父の怒鳴り声、母の嗚咽。相反する地獄絵図が焼き付いていつの間にか蓋を閉めていた、あたたかくて、このまま、まどろんでいたいと願っていたはずの思い出。……許してもらえたことでも、家の中で鉢合わせして睨んで、睨んでも尚、投げかけられた言葉。
『わたしは、焦凍くんの心の、味方だよ』
 意味がわからなくて、逆に馬鹿にされているのだと今にして思えば愚かな俺は、一蹴した。――馬鹿なのは、俺なのに。
「だから、その心は、伊月さんにとったら喜ばしい変化だと勝手ながらに思ってるよ」
「……、……俺、汐なんて言ったか?」
「ううん。でも、わかるよ。君が、体育祭のあとから伊月さんに歩み寄ろうとしてたの」
 驚く。が、そのとおりだ。つづけて「あのとき、対峙して、無茶苦茶やった僕から見たら、」緑谷がどこか恥ずかしそうに視線を下げて、指先を触れ合わせている。

「ふたりの関係は、とても、とても、素敵だ」

 自信とか、不安。負い目と、罪悪感。雁字搦めに無意識に絡んでいた棘が、『それ』からするりと抜けていくのを他人事みたいに、察する。
 重苦しく考えることはなかった。今更なんて、もう、それこそ今更だったんだ。俺が酷い奴で、人を慮れずに無遠慮に不躾に接していたのも、後悔しても、今更のように。
 汐は、そんな俺ごと、抱きしめて、寄り添ってくれていた。
「と、僕からはこれだけなんだけど、だ、大丈夫だった?」
「ああ、ありがとな。……ほんとにおまえは、人を本気で向き合わせる天才だな。すげぇよ、ほんと、」
「おおお、思ったことを言っただけだし、轟くんの気持ちを振り回してたらごめんね!?」
「そんなことねぇ。体育祭の時も、俺を、優しいって言ってくれた時も、そんなこと思っちゃいねぇ」
 姉さんがお友だちになってくれてありがとう、と緑谷に言っていたけど、言うべきなのは俺の方だ。こいつと、友達になれて、よかった。
「……て、照れるなぁ。なんか話しすぎちゃったね、どうする?走りに行く?」
「緑谷さえよければ、行かねぇか」
「もちろん!」
 準備してくるね!待ってて!
 バタバタと急いで駆けていく背をしばらく見つめて、再び、女子用エレベータを見上げる。彼女が、用がなければ降りてくることはないと分かっているのに、無性に、話したいと求める心に、なんだか、笑いがこぼれた。
 晴れやかな気分だった。栞も、大事に使おう。そして強くなる。これから先のことなんか分かりやしない。……大丈夫だと確信している。ここには友人たちが、頼れる先生たちが、ずっと見ていてくれた汐が、いる。

 彼女をおもう心。好きなんだと、胸を張れる気持ち。
 伝えられる日はまだ分からないけど、母を救けだすと決めたあのときのように、心臓に宿ったこの感情を大切にしよう。それが、伊月汐を好きだと自覚した俺の、スタートラインなのだと。

 そう思ったから。









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