短編 | ナノ


君ありて幸福



※幼馴染シリーズ
※押し花の話



 ――――かたん。

「…………あ、」
 ほんの僅かに開け放たれた部屋の窓から吹き込む風が、机の上に立てかけてあったペンを倒し転がした。その音でただただ活字を追っていた意識が浮かび上がり、ようやく長いこと自分が読書に耽っていたことに気がつく。寮生活になってからかなりの時間が経過しているために敷かれた畳から素朴な匂いは感じられないけれど、腰を下ろしていた体勢から起き上がって、そのまま転がったペンを直そうと机へ進んでいく。手にしていた文庫本も、たぶんもうじき夕飯の時刻だろうから栞を挟もうと引き出しを開け、しまっていたそれを取り出した。以前は、視界へ映る度に小さく息を詰めていたもの。
 白紙の上に置かれた、四つ葉のクローバーの押し花。
 それを使用することに、もう、迷いも躊躇いもない。
 途中の頁に栞を挟んで開けたままの窓を閉めて、カーテンも閉じる。春先に手が届きかかっている季節とはいえ、夜に近づいたこの時間帯では肌寒い。椅子の背もたれにあるカーディガンに袖を通しながらかんがえる。
「……ご飯、食べたらちゃんと言おう」
 独り言のようで、自身の背を押すための言葉を呟いた。
 そうして桜からもう一度机へ、そこから、先程クローバーと共に取り出していたもうひとつの、押し花を見遣る。

 カーディガンのポケットに傷つけぬよう忍ばせて、今度こそ自室の扉を開けた。


***


 共同エリアの食堂に辿り着くと、そこに丁度いたのはどうやら居ればいいなと思っていた焦凍くんだけだった。エレベーターの音によって静かに振り向いた彼の様子を見つつ、配膳スペースに向かう。
 隣に座れば口に含んでいたものを飲み込んで、声をかけられた。「汐」
「またおそば?」
「ああ、美味いぞ」
 ランチラッシュから届けられる洋食プレートを前にいただきますを済ませ、用意されたオムライスにスプーンを突き入れる。柔らかでふわふわの卵がとろりと溶けだし、ケチャップの味が染み込んだチキンライスと一緒に口に運べば、相変わらず上質な腕前で無意識に頬が緩んだ。
「……お前、本読んでただろ」
「え、なんで、……もしかしてノックした?」
「した。そこまで急ぎの用じゃねえし、出直した」
「ごめん。今聞いても?」
「前に借りた本を返したかっただけだから、いいよ」
 思い出す。
 緑谷くんも交えて雑談をしていたらお気に入りの本を貸し出す話になって、時間のある時に読んでくれればいいからと手渡したんだった。何度も読んだ本であるから期間は設けなかったものの、冬のインターンも合間にあったことで貸した本人のわたしですら忘れかけていた。どうやら焦凍くんは読み終わったらしい。
 そこまで考えて、ふと思いつく。今なら、とポケットに忍ばせていた押し花を机上に置いた。今の会話の流れから自分にも関係のある話だと察した焦凍くんも、置かれたそれを見て、やがて首を傾げた。
「……しおり?」
「正確には押し花の栞。……焦凍くんは覚えてるかな、ずっとずっと昔、まだ冷さんとわたしと焦凍くんで遊んでたときのこと」
「…………」
 箸の動きが止まる。別に覚えてなくてもよかった。そう伝えると彼は「いや……」とどこか思い出を探るように視線を巡らせて、ゆっくり、口を開いた。「覚えてる」
「お母さんと汐に、クローバーをあげた」
「……嬉しいな。それでね、そのお礼……ってわけじゃないんだけど、幼い頃うれしかった気持ちを返したくて。その、仮免補講前に葉隠さんと蛙吹さんに協力してもらってつくったの」
 協力をお願いした時に見られたあのふたりの優しい雰囲気と笑顔は、大きな勇気をわたしにもたらしてくれた。補講後にふたりきりでちゃんと、ぜんぶ、お互いの心にあった感情を寄り添わせた時間に渡すことはできなかったけど、ああ、やっぱりつくってよかったと思えたから。
「花には、紐づけられた願いと祈りからつけられた言葉があって」
 こじつけかもしれない。そういう意図はなかったのだとしても、クローバーに込められた意味をあとから知って、あたたかな気持ちになったことは真実だ。
 だから、と声を紡ぐ。これは、わたしが焦凍くんに贈る言葉。
「真っ赤で、いつもまっすぐで、いつもみんなを守ってくれる綺麗な焦凍くんの赤に惹かれた――ゼラニウムの花。意味は、君ありて幸福」
「……、汐」
「はは、なんて、すっごく恥ずかしいこと言ってる気がする。でも本当にそう思ってるんだよ。わたし、君の笑った顔がいっぱいいっぱい、すきなんだ」
 焦凍くんの表情に、嫌がるものは見えない。少しだけ見開いた黒と碧の眼差しに、昔よく向けられていた笑顔の面影を見出してしまってくすぐったかった。
 静寂が辺りを包む。受け取ってくれない不安はなかった。
 だってね。

 ……ほら、小さい頃を知る人たちだけしか分からないだろう、微かに下げられた眦がそれを証明している。

「ありがとう。大事にする」
「うん。くどいようだけど、ありがとう。あのクローバーがずっと宝物なの」
「また、見つけたらやる」
「楽しみにしてる」
 過去は、消えない。
 戻りたくても戻れないのは当然な世界で、人は、わたしたちは欠片にさえ満たない優しさと祈りを紐解いて、手を伸ばしあって生きていく。
 逃げてしまった。怖気付いてしまった。一瞬でも、目を逸らしてしまった。それでも。

 こうして、焦凍くんと幼なじみに戻れたことが、こんなにも嬉しくて幸福だから。



「アイツらここが共同エリア且つこの時間帯がもっともクラスメイトが集まるってこと忘れてんじゃねェか?!」「しっ、黙りなさい」「は〜〜汐ちゃんほんま、ほんまよかった」「腹は減ってるけどよ、轟も伊月もあんな顔を見せてくれてんだ。あとちょっとだけ待ってようぜ」「そうだね、切島くん」

 みんなの生暖かい自然に気がつくまで、あと。









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