私の恋人
世の女の子達は高校生にもなってくると、当たり前のように恋人の存在が一種のステータスになってくる。たとえば同校の同級生や上級生、はたまた下級生の誰かと付き合っていたり、中学からの延長線上だったり、若しくは校外の子と付き合ってる友達だって、少なからず私の知り合いにもいるのだ。
欲目を抜きにしたって、恋愛をしている女の子は同性でも可愛く見えてしまう。ほんの些細なことに気を遣って、今まで気にも留めていなかった爪もお手入れしてみたり。まあ本当に人間恋をすることによって美意識が高まるのか何なのか……新しい自分に
挑戦したくなるのだろうか。恋人ができると普段行動を共にしていた時間の何割かが恋人の子に取られてしまうので、そこだけが些か寂しいものではあるけれど、あんなにも幸せですと云わんばかりの表情をされると毒気が抜かれるってもんです。
そんなことを放課後の教室で昼食を一緒に取ることが多い子達と話していると、
其々の這入る予定時刻が近づくにつれて一人また一人と帰宅し始め、残るは日誌を任された私だけになってしまい途端に静かになった教室に急かされるように黙々と作業をする。『今日を振り返って』なる最大に面倒なものは授業間の休み時間で捌ききっている為、焦る必要はないのだけれど矢っ張り面倒なものは面倒で、やや乱雑な字になり乍らも完成し終えた。あとは此れを担任が居るであろう職員室に運べば、晴れて私も自由の身となるのだ。其処に居なければ指定の場所に置いておけば任務完了なので、何処に居るかも知れない先生は探さないでもいいのが日直業務の幸いな点か。
予想通り室内に居ない担任のデスクに日誌を置いて、
却説帰ろうかと階段を降り始めた時、スカァトの
衣嚢から音が響く。携帯の着信音だ。
「えっ」
立ち止まって見てみれば、其処には僅かに緩い文面で『裏門に居るよ〜』と書かれていて吃驚なんてものじゃない。足を縺れさせて踊り場に設置されている窓から見下ろすと書かれてる通りに陽射しが照りつける暑さの中、眺めてるだけでも暑苦しそうな背広を着こんだ痩せぎすの少年がふりふりと的確に私の居る方角に手を振り乍ら佇んでいるではないか。此処は三階と二階の間にある踊り場で、そう易々と位置が気づかれる場所ではないのに、何故だか彼と目が合ったような気がした、瞬間。
「どひぇえ!?」
手元の携帯がいきなり鳴りだすもんだから情けないことに驚きまくって大声が出てしまい、腰を抜かして尻もちをついてしまった。
こ、こんなことをするのは私の知り合いではどう頑張っても
彼しかいない。ほら、心臓が厭に早く脈打ってるのを感じ乍ら携帯を見遣れば太宰治と表示されていて。出ないという選択肢は最初から用意されていないので、未だ驚きが拭えないまま
画面を耳に当ててもしもし、と通話を取る。
『やァ汐、今日も素晴らしく元気な反応だったね! 君は何時も期待を裏切らないからなかなかどうして楽しい』
「……開口一番それが飛び出すあたり、だ、太宰君もいつも通りだね……」
『うん? 覇気がないなぁ。何か疲れるような授業でもあったのかい?』
「あった、あったよたった今」
頭に思いつく限りの返答をしてみても、画面の向こうで薄く笑んでいるであろう太宰君には一切響かない。寧ろその反応ですら面白おかしく受け止められているような気がしてならない。
流石にいつまでもへたりこんでる訳にはいかないので急いで昇降口へ足早に向かい、煙草休憩をしている数学の先生に挨拶をして余り使われない旧校舎の脇道を進み、通話は繋がったまま裏門を目指す。
敷地内にあるグラウンドやテニスコートから元気な声が校舎に反響させて耳に届き、そういえば夏の恒例行事の大会が近いなあ、とぼんやり思うと視界に何物にも染まらない黒が這入り、なんだか通話は切れずにただ鉄柵に背をもたれさせ、到底同い年には見えない蠱惑的な微笑みを口元に湛える太宰君が和やかに、あくまでも自然と手を差し伸べてきた。
「毎日の学問お疲れ様。勤勉な君はさぞかし優秀な成績を残してるんだろうね。数学とか化学とか。ああそうだ今日行われた小テストはどうだったかな? 私が教えた箇所は満点だと嬉しいけれど」
「ずばずば刺されると痛い場所を塩塗りたくらないで……というか、よく小テストがあったこと知ってるね。あ、若しかして
其方でもあったり?」
「うふふ。さあ、どうでしょう」
触れた指先は真夏に似つかわしくないひんやりとした冷たさが有り、じんわりと汗ばむこの時期だと大変有難いものだったりする。
放たれる言葉は厭味に取られても可笑しくないものだけど、太宰君に云われるとちっとも嫌悪感に塗れないのは不思議だ。声の高さ、話の振り方、相槌の打つ
拍子が私の波長と合ってるのか……。
「あーでも暑いものは暑い! そうだ、
氷菓子でも購って食べようよ」
合図もないのにするりと指を絡められ、ぐいぐい裏門を出て歩道を行く太宰君はどこまでも
自由気ままだ。大抵のことは彼の思惑通りになるのではないかと勘ぐってしまう程、太宰君は話の持って行き方が上手だ。これまでに会ってきた大人達よりもずっと、気がついたら抵抗していたのに頷いていたなんてざらにある。
…世の女の子達は恋人や好きな人ができると可愛くなったり、気を遣うことが増えると思っていた。思っていたけど、これはどうだ。世間一般的に云えば恋人同士である私と太宰君の間にそんなものはなかった。
否、
抑も如何して太宰君と付き合うことになったんだっけ? 迷惑な客引きにしつこく勧誘されていた時に、にっこりとした笑顔を貼り付けた彼が割り込んできたんだったか、それにしたって、二言三言話した相手の顔が見る見るうちに青褪めていったのが、妙に覚えている。
何を話したのかあの時は好奇心で聞いてしまったが、強力な圧が見え隠れする笑顔に尻込みしてしまい、結局その件についてはあやふやなままだった。
「……でね、一応数式は合ってると思うんだけど、授業が終わって教科書見乍ら解いてみると違った答えが出てきてさ。矢っ張り私は根っからの文系なんだってば」
「問題提起は大体紛らわしくややこしいものにされてるから、そこが混ざっちゃったんだろう。でも以前は数式すら当て嵌められなかったのに凄いじゃないか、成長してるよ」
道端のコンビニで各自好きな氷菓子を購入し、木陰のあるベンチに座り込んで今日の小テストの出来を話し、何となく無邪気に噴水広場で家族と遊ぶ子供を見る。
今更にも程があるけど、矢っ張り私は太宰君について何も知らない。知っているのは名前と年齢、一の情報を伝えてしまえば千の内容が筒抜けになっているのかと疑うぐらい頭の回転が早いということと、……少しだけ、冷めた表情を浮かべる時があるということだけ。あ、あと稀有な自殺癖を持っていることも知ってる。頸に巻かれた包帯の内側に、青紫色の索状痕があるのはお付き合いを始めた初日に知らされて、死ぬほど吃驚した。…あれ、改めて考えてみたらなんで私は太宰君と付き合ってるんだろう。
「補習になるのは七十点以下だっけ? そこはどう?」
「うーん、超えてもらわないと貴重な放課後休みが減ってしまう……」
「えぇ…それは困るからどうにかしてよ。君と会えないのは厭だからさ」
先に棒付きの氷菓子を食べ終えた太宰君が背後にあった塵箱に、目も向けずに投げ捨てる。
しゃくり、と爽やかな味が広がる氷菓子に噛り付いて視線を横に投げる。そこには年相応に暑さを逃がそうと奮闘する太宰君がいて、益々疑問符で埋め尽くされてしまう。
割と好奇心が疼いたら何でも聞いてしまう性質なのに、一歩を踏み出せない。これが好きな人に嫌われたくないという可愛い心情から来るものだったら佳いのだけれど、たぶん違う。普通な質問はにこにこと答えてくれるけど、一定の見えない線が敷かれているのが運良く交流が浅い内に気付けた私は、太宰君の奥深くに踏み込むようなことは未だに聞いたことがなかった。恐らくこれも理由が判らない原因の一つなんだろうが。
散々何故付き合ってるか判らないとは云ったけど、心配せずとも私は太宰君が大好きである。恥ずかしくて云えた試しはないし、生まれついた時から女らしさが欠如している私は周囲で見掛ける女の子らしい反応はできない。でも、さりげなく気遣ってくれるところや、褒める時はきちんと褒めてくれ、何よりも私を認めてくれる太宰君が、大好きだ。云ってしまえば太宰君はいつものように微笑んで、綺麗な声で返してくれる筈。
「十日振りに太宰君と一緒にいられて楽しかったよ。ありがとう、いつも家まで送ってもらって」
「構わないよ。したくてしてるんだもの」
他愛のない色んな話をしていると、私の家は短時間で着いてしまう。話しかけやすい微笑を常に浮かべて、暑くて早く帰りたいだろうに文句の一つも云わずに送り届ける太宰君は、本当にできた彼氏だと思う。
毎度のことにお礼を云っていれば、繋いでいた手を強く引っ張られ、目の前に秀麗な顔が近づく。いつものことだから、抗うことなく目蓋を閉じて軽く触れる口付けを受け入れて、離れた時に笑い合う。
「これも、ね」
「……恥ずかしいけど、嬉しい」
「ふふ、かーわいい。じゃあ、また会える日に連絡する」
鍵の戸締りはきちんとするんだよ、一人の時は特にはね。
そう云い残して背広の裾を翻して来た道を戻っていく太宰君の背を、曲がり角まで見送って私は熱くなった頬に手を中てて、家へ這入った。
玄関には家族の靴は一つもなく、遅くなるのだろうと思い乍ら私は手洗いうがいを済ます為に洗面所の扉を押し開く。付随する鏡に映った私は、縁のないものだと思っていた恋する女の子の顔によく似た、赤い顔をしていた。
ああ、頬があつい。
肩にかけていた鞄を寝具の上に置いて、付けたばかりの冷房に頼るように寝転んで、家族が帰って来るまで一休みしようと、うとうととする意識をあっけなく手放した。
***
「ふふ、ふふふ……可愛い可愛い汐」
薄暗い建物の中、何かの機械を手で遊ばせ乍ら男は恍惚にほくそ笑む。
目を遣る画面には様々な角度で撮られた少女の写真が散りばめられていて、それら凡て視線が合っていない。
何が男───太宰の琴線に触れたのか、他人が知る由もない。まわりまわって純粋と喩えてもいいような歪んだ微笑みを貼り付けて、太宰はうっそりと画面に浮かぶ汐に指を伸ばす。何度も何度もなぞるように、彼女に詛いをかけるような動きは、常軌を逸していた。
太宰は笑う。王手をかけられる位置にいるのにも関わらず、足を退かしてしまう愛しい自分の恋人が、愛おしくて堪らないと。
「空気が読めないように思わせ乍ら、その実誰よりも人の隠された感情や僅かな変化を見逃さない鋭さを持っている君のことが私は大好きだよ。それこそ、誰にも渡したくない程に、ね。君のことは何でも知りたいし、本当は片時も離れたくないんだけど傷ついたりするのは私が許せないから、汐が今何をしているのか判ってしまえば手を回すことができるのが利点だ。───嗚呼でも、欲を持った視線で君を見詰める男は気に入らないなぁ。直ぐに
対処しちゃうと気づかれるかもしれないし、夏休み明けに諸事情で転校しましたってことにしてしまおうか! そうなるように仕向けるのは退屈な銃撃戦なんかよりよっぽど簡単だ。我ながら頭がいいなぁ、うふふ。………うわ、蛞蝓から電話だ。もしもーし、私今君にかかずらってる暇ないんだけどぉ? え? 流石相棒、もう以前に頼んでたやつ仕上げてくれたの。うん、うん、お礼として中也の愛車に爆弾を仕掛けてあげよう! じゃあね。忘れない間に電源落として、っと。……あ、くしゃみも可愛い。後で巻き戻してもう一回聴こう。
うふ、うふふ。
嗚呼──なんて可愛らしい。私の、汐」
存外直感があてになるものだと彼女が気づくのは、まだずっと先の話。
……気づいたとしても、逃げられるかどうかは別の話である。