短編 | ナノ


牡丹一華君を愛す



 最愛の兄がいる。
 生まれた時から感情豊かだと云われた私とは真逆に、余り表情筋が動かなかった人だったけれども、血の繋がった妹を手探り乍らも大事にして呉れていた。もう思い出せやしないがいつからか兄が不思議な力を得たのを機に、両親が殺され流れるままに暗殺を請け負い始めた兄はこれもいつしか淡々と人を殺すようになっていた。兄と五つ年齢が離れていた幼い私は、子供乍らも暗殺の仕事がどれ程危険が付き物だということを正しく理解しており、決して兄の言葉を疑うことなく其れを実行してみせた。
 誰とも知らない血と硝煙が蔓延る、泥色の日々だった。
 一度だけ、凡てを押し付けていると感じた私は彼に手伝いを名乗り出た時がある。しかし、彼は頷く機会は終ぞ無く、僅かに微笑んで私の頭を撫でただけだった。判っていた、何も技術や力を持たない人間が現場に躍り出ても、肉壁にすらならないということは。無理を通して危険に晒すのは本末転倒だったため兄の言葉を受け入れ、ただただ私は兄にとっての帰る場所で有り続けようと料理や洗濯、生きていく上には必要不可欠なものは賃金で雇った口の硬い家政婦とその人に教わった私が背負い、普通とはかけ離れた仕事を内に秘めて、生活をしていた。
 そんな或る日───あれは兄が十四を迎えた年だったか、いつものように帰ってきた兄は一冊の本を手にこれまでとは違う光を目に宿し、こう云った。

「この本の続きを、おれが書きたい」

 装丁され完全な本に見えるものに何故続きを書こうとしているのか、何があってその結論に至ったのか。聞きたいことはたくさんあった。あったけど、聞けなかった。意味を知らなくても優しい兄が何かを決めたのだったら、私はそれに頷くだけなのだ。
 そこから、生活は一変した。暗殺を請け負わなくなったのだ。普通の生活になろうとも幼い時に親の手から離れ、すぐに陽の中る場所で過ごせるような経歴ではなかった兄は、貧しい暮らしにならないよう勢力をここ最近で広がりを見せていたポートマフィアに加入し始め、人を殺さないマフィアになろうと決めていた。
 所属する処は矢張り普通とは程遠い場所であっても、無意味な血が溢れる以前の生き方と較べると、だいぶ佳い気はした。

「連絡は取る。心配させないようにする、絶対、汐をひとりにしない」
「……うん」

 私はと云うと、強く信頼できる大人達の……といってもお年を召した老夫婦のもとに預けられることになり、如何やら兄はマフィアに這入って欲しくないのが感じられた。
 不思議な力を持った兄とは違い、体術も人並み以下だと自覚していた私は正直云って足手まといなのだ。兄の云う通り、寂しさを覚え乍らも問い質すこともせず、これも頷いた。戸籍はそのままに、親を失い放浪していた孤児で通った私は、こうして泥色の世界から脱却したのだった。
 約束を守り、兄は短い時間でも連絡を寄越して、色んなことを話してくれたし教えてくれた。或る時は上の立場である者が声を掛けてきたこと、また或る時は一人を巻き込んでバーに連れ去ったこと。内容は問わなかった。ただ兄妹だから判る程度に、嬉しそうな様子で話すのがありありと判ったから、私はそれが嬉しかった。

 一緒に過ごせなくとも、関係は変わらない。たったひとりの兄で、たったひとりの妹の私達は日常を追いかけ、過ぎ去った昔に想い馳せるのだ。
 嗚呼、沁みるような夕暮れが目に眩しい。

 
 遠い方面で、バスの爆発事故が起きた報道をなんとなしに聴いていた。






 ───最愛の兄がいた。
 立場故に一緒に暮らせなかった妹を何時も心配し頻繁に便りを呉れた、私とは真逆の性格の兄はおおよそマフィアの人間とは思えない程お人好しで優しい人だ。
 不器用にも家族を愛し、子供達を愛したかの人は海の見える部屋で小説を書く夢を叶えることなく、私にさよならを告げることなく消え去った。本当なら取り乱し泣きわめくのが当然なんだろうけど、そうも行かなかった。でも関係は続いていたが会う機会が減った私がその事実を知ったのは、偶然にも満たない、必然の産物のこと。
 …其の日、花冷えの予報が明朗快活に伝えられた朝に、私は目蓋を閉じたまま久しぶりの感覚に身を任せていた。身を潜めて過ごしていた頃とは違い、高校を卒業し、専門学校でデザインの勉強をし乍ら血腥ちなまぐさい過去を持ちつつも普通と同じ生活をしていたから、それ、、の感覚を味わったのは実に二年ぶりだった。
 褪せた映像の中に私が立っていた。見慣れた居間リビングで、映っているテレビは同じだから恐らくは数分単位の先の未来だろう。
 視点が切り替わる。外と中を繋ぐ玄関扉の前、誰かが立っている。細長い体躯に砂色の外套を背負い、頸と腕に包帯が見えるその男に面識はない。だけど、直感的にそうだと感じた、、、、、、、。男は躊躇う様子で呼び鈴を鳴らそうと指を伸ばしては引っ込める動作をしていて、何だか迷子の子供のように思えてならなかった。幾度か繰り返して、いざ鳴らしたと判った瞬間に映像は途切れ、目蓋をこじ開ければ見慣れた室内が広がり、アナウンサーが朝からぎっしり詰め込まれたニュースを読み上げている。おまけと云わんばかりに脳裏には情景が描かれた画像が飛び交い、頭を振って立ち上がる。
 よし、と私は敢えて上着を羽織り、玄関へ迷いのない足取りで向かった。見えていた映像にあった長針は三を示していて、今は零を指している。でも判る。もうこの向こうに彼はいるのだ。二度三度、深呼吸をしかけていたロックを音を立てぬよう解除する。
 そうして、扉を開ける。ぎ、と年季を感じさせる音と共に開けたその奥には、一寸の狂いもなく先程の男が瞠目の表情を浮かべて私を凝然と見つめていた。呼び鈴に伸びていた骨ばった指が、宛てもなく彷徨う。映像……予知、、では顔を窺い知ることはできなかったが、儚さと憂いを兼ね備えた、どことなく秀麗な顔立ちの男だった。

「立ち話もなんですし、中へどうぞ」
「否、私は……」
「長くなりますよね、その話。私は視えて、知っていますから、、、 、、、、、、、、

 そう云えば息を呑んだ男が小さく「貴方は……」と溢し、僅かに逡巡した後、無言で頭を下げた。承諾の意だと察した私は扉をより押し開き、男を中へ通した。
 怪しいとは思わなかった。だってその手には、私と兄しか知らない筈の葉書を持っていたから。そして葉書を兄が手放すことは絶対にないと判っていたため、頭が賢くない私でも兄の身に佳くない何かが起きたのは、容易く思い描けた。
 朝食の途中だったテーブルは簡単に食器を流し台へと運び、居場所が無いと云いたげな男に向かい合う席を勧め私も着席した。
 沈黙が立ち込める。
 長くて長くて、車の走る音のみ響く部屋の中。
 口を開いたのは、私の方が先だった。開くと共に置いていた手帳から折り畳まれた紙を広げ乍ら。

「間違っていたらすみません。……あなたが、太宰治さん、ですか?」

 ぴくりと、太宰さんと思しき人の眉が反応した。
 切り出せば張り付いていたのか、開けなかった口も回るようになったのか、容姿と合った声が私の鼓膜を叩いた。

「はい、……遅れて申し訳ありません。私は太宰治と申します。失礼ですが…貴方は、」

 一拍間が空いて。

「貴方は、織田作之助さんの妹君の、織田汐さんですか」

 鳶色の双眸を逸らさず、尋ねてきた。
 住んでいるのは私しかいないと判っているのに、尋ねてくるのは互いにとって確認が必要だったからだった。そうです、と頷いた。
 一言紡ぐのもやっとな太宰さんは私の出したお茶を一口飲み、最も云い辛いそれを口にしようとしては言葉にならず、一つの動作を図らずも繰り返している。正直云うと、兄がいなくなったのだとここで察した。いなくなった、行方不明などではなく、正真正銘二度と触れ合えない遥か遠くの地へ旅立ったということに。
 私を遺しただけではなく、目の前に座る太宰さんも遺した兄は死んだのだ。
 だから。

「兄は───作兄さんは本当に太宰さんを友人だと思っていたんですね」

 確実的な言葉を太宰さんに云わせず、私は話を振った。
 裏社会の筆頭とも云えるポートマフィアの情報なんて洩らせず、それでも手紙や時々の電話でよく聞いていた『太宰』と『安吾』の話題。きっと彼らと普通に限りなく近い友人関係を築き、普段は顔や言葉にしなくてもそれが兄は嬉しかったんだろう。じゃなければ、唯一の私に繋がる謎かけのような文字の羅列が書かれた葉書が、太宰さんに渡る筈がないもの。
 私の発言でハッと何かを振り切る仕草を見せた太宰さんは、一度目を伏せ、次いで開いた時にはゆらゆらと揺れていた不安定な眼差しはなくなっていた。

「そうだとしたら、こんなに嬉しいことはないです。私も、織田作を友人だと思っていました……いえ、今も友人です」
「ありがとうございます。きっと、兄も喜んでます」
「……少し、訊きたいのですが」
「はい」
「先程、視えていたとおっしゃっていましたね。考えが外れていなければそれは」

 疑問符をつけた話し方だったが、語気は既に答えが出ていそうな風で。
 兄が云っていた頭の切れる奴、という表現にぴったりだと内心舌を巻きつつ、ええ、と呟いた。窓から見えたのかもしれないし、他の手段で見たのかもしれないのに。他を探ることなく正しい意味を導き出した太宰さんに、私は手帳のある頁を指差した。
 横浜の地がまるで炎に包まれるような眩しい夕焼けがうつくしかった、二年前の日付。

「この日です。この日から、数分単位ではありますが未来が視えるようになりました。でも最初に視たっきり、今日まで無かったんです」

 見えている世界が歪み、似た景色が自分の意思とは関係なしに動き出したかと思えば、そこで視たことが現実に少し経ってから起き出したのを目の当たりにして、咄嗟に思ったのが。
 兄、織田作之助が有していた【天衣無縫】と呼んでいた力の発現。
 そこまで考えてはたと、思い出したことがあった。そうだ、この日、この時確かに云い知れぬ胸騒ぎを抱いていた。それで、そこから兄の連絡は途切れて捜し出そうにも情報が足りないと知ったのも、この日だ。

真逆まさか

 ───ふと、堪えきれず零れたような声を上げた太宰さんが身を乗り出して示された日付を覗き込む。

「汐さん。この日です、この日の夕方。織田作が亡くなったのは」
「え……」
「しかも先刻さっき夕暮れ時に未来を予知したって。異能力が持ち主の意を介さず血縁者に譲渡された……? 否、そんな事例聞いたことがない」

 織田作は5秒から6秒ぐらいでもあったのに……。
 狼狽が見て取れる太宰さんを視界に入れ乍ら、私はぎゅっと胸の前で組んだ両手に力を込めた。兄と私が持つ力が異能力と云うのを初めて知ったが、どうでもよかった。遺伝なのか、両親は持っていなかった筈だ。兄妹で元々持っていた可能性が高いのに、私はどうしてだか兄との繋がりが見えて縋ってしまう。昔から、兄妹といえども似ていなかった私と兄に、明確な線が見えたような気がして、手を伸ばす。
 太宰さんが元の位置に戻ると同時に、二度目の瞠目をしてみせて。彼は慌てて衣嚢ポケットから手巾ハンカチを取り出して私の側に屈んだ。
 そこでようやく自分が泣いているのに気づいて、有難く受け取って頬に伝った涙を拭う。

「……汐さん」

 名を呼ばれ、顔を上げる。
 招いた時より微かに晴れた顔の太宰さんがいた。

「私はこれから、織田作が示してくれた道を歩みます。命を強奪うばう側ではなく、人を、救う仕事をします」
「兄の示した…」

 太宰さんは必死に作兄さんの言葉を守ろうとしている。来なくても佳かったのだ。罵られる覚悟もしてきただろうに、それどころか最期を看取った彼も苦しいのに。作兄さんの友人だということが、痛い程に伝わってきた。
 どういう言葉を遺したのかは判らない。けれども、太宰さんがマフィアを抜けたということは、つまりそういうことなのだ。どこまでも、兄らしかった。異能力についてや危ないこと以外を教えてくれた彼に感謝する。
 涙が乾くのを待ち、できる最大限のおもてなしを太宰さんに振る舞って、私は再就職先に向かおうとするのを見送ろうと彼の背を追った。
 扉を開けて振り返った太宰さんがあ、と声を溢し、仕舞った葉書を再び取り出して私に見せてきた。

「赤いこの花、何だか判りますか?」
「ああ、一寸ちょっと形崩れてますが其れは、牡丹一華アネモネです。私の誕生花でもあるんですよ」
「牡丹一華……」

 返事を聞いて太宰さんは考え込むように黙った後、結局何も言わずにありがとうございました、と述べて敷居を跨いで外へ出ていく。
 兄と同様の異能力を発現させた私と、兄に遺された言葉に沿おうとする太宰さん。
 居ても立ってもいられず、適当な靴を引っ掛けて少し前方を行く太宰さんに、抑えていた大きさであの! と声をかけた。

「いつでも、寄ってくださいね! お話を聞いたり、珈琲を出す程度しかできませんが……疲れた時は気軽にっ」

 自分でもどうしてこんな必死に喉を震わせているのか判らなかった。案の定、投げかけられた当人もきょとんと目を瞬かせ、緊張した面持ちをした私を見ている。
 本日最初の、要らないことを云ってしまったと感じ始め、頬に熱が集中するのを自覚し乍ら太宰さんの反応を待っていると。
 風が吹いて、太宰さんと私の髪が靡き、顔を見せ始めた太陽が眩しい。衣嚢に両手を入れた砂色の外套をまとうその人が、薄っすらと口角を上げて。

 そうして───破顔した。
 その背には兄の好きな梅の花が、綻んでいる。









×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -