短編 | ナノ


ヘブンリーブルーが咲く頃に



 時々、意味もなく呼吸が苦しくなる。

 誰かに首を絞められているわけでも己で締めているわけではないのに、はくはくと口がひくついて酷い際には視界すら狭まってしまい、地に足をつけているはずなのにぐらりとふらついた。
 一種の発作みたいなものだね。医者を名乗る顔見知りの魔法使いにそう診断を受けたのは随分前のこと。偶然南の国へ足を運んだ時にばったり顔を合わせ、あれよあれよと口車に乗せられ診療所に連れていかれるのは相手ながらあっぱれの一言に尽きた。シンプルだが、清潔で小綺麗な診療所で説明できる限りの症状をつらつらと答えると、仕方がない存在を見るかのような笑顔──シーヴィエからすると感情の読めない顔だ──で先程の診断結果を下してきたのだ。聴診器を首から外し肩を解す魔法使いをぼんやり見て、どこかでああやっぱりか、と諦めにも似た気持ちでそれを聞いていたシーヴィエはただ一言、そうですか。と言って症状改善のための薬や言葉を不要とし、自分の住処へ帰っていく。
 そも、分かっていたのだ。原因なんてものは。数十年経過しても消え褪せることのない己の傷口。あえて、放置していた古びた傷痕。
 分かってはいたが改善する必要性を感じず、誤魔化してここまでやってきた。善良で温厚な南の魔法使いの気質を身につけた医者が追いかけてこないのは、あちらも本当はこうなる結末を知っていたからかもしれない。寧ろ300年ちょっとしか生きていない自分よりも、数倍近くこの世界で息衝く彼の方がよっぽどシーヴィエの知らぬ何かを掴んでいそうなまである。もちろん、全ては憶測にしか過ぎぬ邪推だ。
「……あれ」
 優しくて親切な南の国を十分に満喫した後、いざ国境を越えようと踏み出した際、かさり、と何かが擦れる音を耳が拾い上げ不思議に思い小さなバッグの中を漁ってみる。突然歩みを止めた形になるシーヴィエを迷惑そうに見やる視線をものともせず、端に寄って入り込んでいた紙を広げた。
 こんなことをできるのは直前まで共にいた者しかいない。故に自然と絞り込まれ、この辺りが前に見かけた際と変わらないのだろう、とどうしてだか懐かしさに襲われる。付き合いの長さはそれこそ永きを生きる魔法使いだからこそ短いと称される分類だけれども、お互い深く踏み込まない。いわゆる、不可侵の決まりだ。約束ではないが、意識はしている口先だけの決まり事である。近づけば近づくほど、苦しい思いをするのはいつだって魔法使いたちの方なのだから。「ふふ」
 やがて、簡潔に書き記された文を末尾まで読み終えたシーヴィエは小さくふっと笑った。
 少しだけ道を逸れ、開けた場所に立ち止まる。片手で持った紙を数度折り曲げ、一対の翼を形作りそうして──ふわりと飛ばした。逆風に煽られながらも速度と高度を落とさないそれにはシーヴィエの魔法がかけられていて、湿った南の気候に寄り添うように上へ上へと浮遊する。飛ぶ紙はじっと見上げる彼女のシャルトルーズイエローの瞳に影を落とし、しかし影は閉ざされた瞼により消え失せた。もう、瞼を持ち上げた先に白い紙鳥はいないのだろう。
 ……そうして数秒。肩に流れる結ばれた白髪が揺れ、シーヴィエは静かに言った。
「ごめんなさいフィガロ。その言葉は聞けないです」
 謝罪と拒否の言葉は、誰に届くことなく、霧散する。

 ───そろそろ自分を、許してあげたら?

 いつまでも、どこででも、終焉を響かせる鐘の音が耳の奥にこびりついて離れやしない。鐘の音は、白の娘にゆめゆめ忘れるなと突きつけているようで。
 無意識にポケットにある誰かの魔道具へ手を伸ばしながら、シーヴィエは来た道を引き返していき、今度こそ国境を越えて東の国へと帰っていった。

***

 東の国内をさらに南へ進んだ先に、シーヴィエの邸宅はあった。

 雨の街からさほど離れず、けれど目に付きにくい場所に建てられた一軒家は薄ベージュの木目が眩しいテラスと、行商人から買い付け整えられた花々が美しい中庭が自慢の、訪問者を最大限にもてなす意志を見せている。ここに法はなくあるとすれば、一昔前だったならば星呼びの杜と噂されていたただの森がぐるりと取り囲んでいるだけだ。
 誰が吹聴したのか、誰が言ったのか。不明瞭で曖昧な噂だけが独り歩きをし、星を掴むことが可能な場所だと囁かれていた。無論、そこを住処としていたために大変迷惑を被った。一日中邸宅を隠すための魔法を使い、噂が消える時まで維持をし続けていたのだから。
(たしかに時間と位置と、それから方角さえ間違えなければ星々の絶景が見えるけど……)
 人間が入り込んだり、迷う回数はぐっと減った。だが、シーヴィエは一度たりとて誰の目の前にも姿を現さない。何の情も湧かぬ人間相手と知り合ったところで益はなく、巡り巡って自分が大切にしている場所も穢されると感じてしまうから。
 だいたい、マナエリアと定めた場所へ得体の知れない人間を連れていくなど正気の沙汰ではない。と、シーヴィエは常々思っている。書いていなかっただろうがご覧のとおり、シーヴィエはかなりの人嫌いだ。
「……と、いけない」
 考えても詮無き思考に全部が持っていかれそうになり、緩く頭を振る。動きと共になびく白髪は毎日丁寧に手入れをしていた。鮮血にも似た色のリボンも、穏やかに揺れて。「あ、鳥」なんとも腑抜けた声を出しつつ、空を見やる。澄み切った青の中を仲良く並んで飛ぶ鳥たちが翼をはためかせ、空中旋回をしていずこかへ消えていった。
 色の趣向は大してないのだが、赤と青だけは例外に目を奪われるものがある。赤は既に目にする機会を失っているものの、青は控えめな優しさをまとっている。そして青はもうじき、ここを訪れるのだ。楽しみだからこそ早めに支度を終えて、訪れる来客者を待っていた。そろそろスイーツの仕上げに取りかかるのも丁度いいかもしれないし、カップに注ぐ紅茶の用意だってしなくては。
 そうしてそこまで順序を組み立ててから、自らの両頬に両手を添えて、満足気に頷いた。
「うん。今日も一日がんばれそう」
 身を翻し、目指すはキッチン。魔法でほとんどのものは手間暇かけずに出来上がるものばかりだったけれど、シーヴィエは構わなかった。人間よりも数倍、果てには何千年も生きる魔女として生まれた彼女にとって食事は通過点に過ぎない。こう言うと身も蓋もない性格だと思われがちであるが、当然シーヴィエだって料理を嗜むことだってある。これから先、長く生き続けていくこの世界で同じ魔法使いから料理を学んでもいいだろう。別に今は必要がない、というだけで。
 最初に手を伸ばしたのはオーブンだ。開かなくても香ばしい匂いが滲み、食欲を刺激してくる。泳ぐような指先を四方に流せば、どこからかともなく二人分の銀食器がふよふよと漂い始めた。そのまま盛りつけまでこなしてしまえば、後は格式高い果実を使用したベリーティーを注げば一通りの準備は完了する。行儀よく並んだ銀食器に飾り付けのフルーツ、テーブルクロスにどこか得意げに笑っていると。「こんにちは」玄関先から声がした。
「いらっしゃい、ヒースくん!」
 歓迎するように両手を広げれば、こちらもまた行儀よく扉を閉めてから頭を下げる青年が視界に入る。
「おじゃまします、ヴィ」
 にこやかに微笑み律儀に手土産を渡してきたのはシーヴィエと同じ魔法使いであり、不定期にお茶会を共にするヒースクリフだ。陽の光に照らされると眩しく輝くアプリコットの毛先と、惹き付けられる神々しさまでもがある鮮やかな青の双眸は、天に住まう神様が懇切丁寧に創り上げた一種の芸術品のように見えた。ヒースクリフは芸術品でもなければ、人間の両親から生まれた存在であるが。それでもそうとしか思えず、シーヴィエがこれまで出会ってきた何ものよりも至上の美しさを持っており、どれだけ見つめようが飽きがこない。先に会場となる中庭へ案内しようとすれば当たり前のように首を傾げられる。「俺もお手伝いしますよ」「ヒースくんはお客さんだよ」「二人でやってしまえば早いですし」それを言われると反論できず、揃ってキッチンに踵を返した。
「わぁ、いい匂いですね。ココットと、この爽やかな香りはレモンパイかな……? あと甘やかな…ベリー?」
「正解。今回はベリーティーにしてみました。とりあえずヒースくんから頂いたものは冷凍保存で、これ全部中庭に運ぼうか」
「はい」
 正確に香りだけで料理名を当てる名家の子息の恐るべし嗅覚に感嘆しながら、シーヴィエはレモンパイの皿を、ヒースクリフはココットの皿とカップ二つが載せられた皿を持ち中庭へ続く通路へ向かう。その中でもさりげなく気遣いを見せてくるものだからありがたい限りでしかない。ヒースクリフは隣を歩いて視線をシーヴィエの持つレモンパイに当てた。「そうだ」顔を合わせる。思慮深い青が彼にとったら華々しく咲き誇る花の色の瞳を射抜いた。
「シノはヴィのレモンパイが好きでしたから、ひとつ持ち帰っても?」
「もちろん、持っていってあげて。足りないだろうから終わったらまた焼き上げるよ」
「手伝いますね。あいつ、レモンパイが好きだから……喜んでくれます」
 心が穏やかになる会話に頬をほころばせ、着々と中庭をセッティングしていく。人が多い場所に慣れていないヒースクリフはともかくとして、シーヴィエは進んで人と何かをする気はなかったから、ヒースクリフが特別と言わざるを得ない。
 中庭に出れば麗らかな日差しが眩しく、いい天気だねと笑いあって。こんな日にお茶会できることを嬉しく思いながら、テーブルに置いたカップに注ぐためにキッチンへ往復しようとしかけて気づく。ティーポットの存在を忘れていた。苦笑いを浮かべるシーヴィエにヒースクリフも気がついたのか、尋ねられる。
「執務室にティーポット忘れちゃって……」
「なら、俺が取ってきますね。ヴィは待っていてください」
「え、いいよいいよ。私が……」
 持ってくるから。
 そう言い終えない内に既に爪先を逆向きにしたヒースクリフは笑って、いってきますねと立ち去っていた。
 過ぎゆく薄い水色の背を見つめ、シーヴィエは思う。
(覚えてなかったわけじゃない。わけじゃない……けど、ヒースくんってごく稀にびっくりするほど活動的になるんだよなぁ)


 ヒースクリフがシーヴィエの邸宅内を歩くのは珍しいことではない。さすがに家主が共にいない時に私室に入る可能性は零に近いが、一般的に立ち寄れる箇所には入室許可を得ている程度には信頼を寄せられている。なので、執務室と言われてすぐさま脳内で間取りを呼び起こしつつ、遠慮がちに目的の部屋へ歩を進めていく。
 シーヴィエの邸宅内はシックな雰囲気を滲ませ、廊下には東の国で多く咲く花が活けられている。一人で住むのを仮定してか無駄な部屋は一室もなく、少し進んだ先に執務室はあった。在室者がいないのを理解しながらも何度か扉を軽く叩いて、挨拶代わりの「失礼します」を述べ右手で灯りをつける。執務室と銘打たれているだけあって配置されているのは様々な本が詰め込まれた棚と、机、そしてここにも廊下と同じように花が活けられていた。どちらも下を向いている姿がデフォルトなのだろうか。
「えっと、ポットは……」
 過剰にじろじろと見渡すのはどうかと思い、さっと視線を巡らせればシーヴィエの言ったとおり机上にティーポットが鎮座している。短時間で目的を果たせそうだと軽い気持ちでおしゃれなデザインのそれを持ち上げれ、ば。
 ……ぱさり。
 ティーポットでは立てられない音が耳に入り、ヒースクリフはゆっくり下を見る。音は下からした。幸いにも何を落としたのかは一目瞭然で、おそらくポットにもたれさせるように置いてあった薄紫の手帳だろう。ちょうどヒースクリフから死角になっていたため、見えなかったのだ。拾いあげようとしてふと気づく。
「……種?」
 手帳からはみ出している袋からは、何粒かの青々とした種がもれていた。種を所持していても気にはしないだろうけど、整理整頓をきちんとしているシーヴィエが手帳を出しっぱなしにしているのも違和感があるのも確かで、ちょっとばかり好奇心が湧いたのだ。手帳を覗き見るのはヒースクリフの度胸が足りなければ、そんな不誠実な態度で彼女に接していない。気を抜くと見落としてしまいそうな小さな小さな、種だった。
 几帳面な部分と清潔じゃない場所を厭う互いだからこそ、必然の好奇と言える。当初の予定を終えているので長い間留まれば不審に思われるかもしれない。それでも、心の奥底で引っかかる微かな違和感が足をこの部屋に縫い止めていた。
(なにか、……俺はこれを知ってるのかな。種、種……)
 真空に保たれた袋を覗き込み、これまでに培った知識や記憶を揺り起こしていくもこれだとしっくり腑に落ちてはこない。喉元まで出かかっているのに大人しく上がらない違和感の正体にヒースクリフの整った眉がひそめられた時。
「ヒースくん」
 静寂を切り裂く色を宿す声音が室内に響き渡る。
「は、はい!」
 事情を説明したら決して理解の遅くないシーヴィエは納得してくれるだろうに、なぜだかいけないことをしてしまったような気持ちになり、変な感じに返事の声が裏返る。ぎゅっと手帳ごと胸元に押し付ける形となった。
「お願いしたものなんだけど、もう一個忘れ物したのに気がついたから私も戻ってきちゃった。ごめんね」
「い、いえ。それは大丈夫です、ポットも無事見つけて回収しました。ほら」
「昨夜寝つけなくて温かいの飲んでたんだ。って、そういえばその手帳……」
 シーヴィエは自分を不審がるどころか、己の過失のために執務室に訪れていた。欺いたみたいで気は引けたもののその隙に手帳を元の位置に戻せばよかったのだ。ばくばくと要らぬ不安を抱えた心臓がいやに大きく脈打ち、そこまで思い至らなかった。身勝手な行動はせぬと信を置く相手が私物を持っている。誰がどう見ても、幼馴染が見てもそうとしか思えない光景を、自分から作り上げたようなものだった。
 ──きらわれたくないのだ、シーヴィエに。自分らしく話せる相手がお世辞にも多くはないから、という理由もある。一番は違う、彼女が大切な存在だから。
 そう考えると頭の芯から血の気が引き始める。魔法使いを誤解する人間たちに嫌われるならば、まだいい。シーヴィエは、だめだ。からからと口の中が乾き始めて徐々に表情が険しいものに変わっていくのを自覚して、ようやく彼女は口を開いた。「もしかして」咄嗟に身構えた。が。
「落ちてたのを拾ってくれた?」
 微塵もヒースクリフの誠実さを疑わないシーヴィエに、どっと血の巡りが戻っていくのを感じた。全身から力が抜けていくのを全力で体感する。「はい……」
 そう、そうである。ヒースクリフはティーポットを手にした瞬間に落ちた手帳を拾っただけ。後ろめたく思うことは何一つなかったのだ。謝辞を告げる彼女の様子に内心安堵しながら、相反する感情を立て続けに味わい感覚が麻痺したのだろうか、知らず知らず言葉を発していた。たぶん、計り知れぬ焦燥をもうヒースクリフは知っているから。
「あの、この種って何か聞いてもいいですか?」
 ろくに脳内審議を通さず溢れた質問にあっと後悔するも遅く、「種?」とシーヴィエは疑問符を頭上に貼り付ける。不思議そうに二度三度うつくしい双眸が瞬きを繰り返し、目線が胸元に落とされたのち。「ああ」得心がいったようにさらに頬を緩ませた。
(………あ)
 漠然と、ちがう、と思った。
 何がどうちがうのかと説明するには時間が圧倒的に足りず、的確に言い表せる語彙を探すことができず、ただただ違うとしか答えられない。いずれの笑顔もシーヴィエの表情だろうが、これはその比ではないぐらいに違うと、感じた。
 伸ばしかけた手が届かないと決めつけていない。受け入れられているとまで思う。しかし、開かれたくない扉はきっとある。彼女が通せんぼをして侵入を許さぬ領域には、どれだけ親しくなろうと、──ひとりがその先を望んだとしてもシーヴィエが許容しなければ近づくことすらできない。
「それはね」
 シーヴィエは緩ませた笑みのままあどけなく続ける。
 開け放たれた窓から風が吹き込み、ヒースクリフの前髪とシーヴィエの長い髪を遊ばせる。種ごと自身の手元に受け取り、ヒースクリフにも見えるようにして手を広げてみせて、笑って。

「ヘブンリーブルー」
 と、言うらしいの。

 そう、涼やかで、それでいて拭いきれぬ懐旧の念を含ませた声がじわりと静かに溶けていった。









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