さよならの鐘が鳴く
雨の街を出て、ほんの少し箒で飛んだ場所には、連日の土砂降りで草花が朝露をまとい差し込む陽射しに楽しげに笑っている空間がある。柔らかに風が辺り一面緑の葉を揺らしながら、他と比べると喧騒とはかけ離れたそこは、人の多いのは苦手な私にとっては数少ない一人になれる場所だった。野生動物ならともかく、人間や他の魔法使いが滅多に訪れないせいか、自然に出来上がった土地が歓迎してくれているようで、時々、私はここへ感情を置いていくようになっていた。
「…………」
ごろん、と寝転べば澄み渡った青空が両眼を貫き、僅かに眩しい。
ふと背中がじわりと滲む気配にそういえばと息を吐く。まだ雨の侵食が残っていて、服が水分を吸い取っていき、やがて小さな染みを作り始めた。別にあとで魔法を使えば一瞬で乾くのだろうし、その気になれば水だけを弾く魔法だって使える。手間を考えると数秒で防ぐことができる魔法の方がいいのかもしれない。
だが。……だが。
──それすらも億劫になっていた。
豪雨を凌ぎ、懸命に蕾を綻ばせていく花々や明るく大地を見下ろす青に申し訳なくなるほど今の私は酷い顔をしている。
そっと無意識に右の指先が、己の腹部に触れる。奇妙なでこぼこも、膨らみもない平坦な腹の中には、あの男のマナ石がある。放っておけばよかったのに、重傷を負う私を、ただ見ていればよかったのに。いっそのこと憐れだと思われてもおかしくないあの時、見捨てていけば、あの男は、オルフェンは今でも生きていたのだろう。
それを、私が壊した。──こわしてしまったのだ。
馬鹿な人。笑顔も声も、思い出だって長くを生きる私たちが全てを覚えていくことは、できやしないのに。
そう、ぼんやり思っていれば。
「《アドノディス・オムニス》」
魔力の込められた呪文と瑞々しい色を持った存在の影が視界に映ったのは同時で。それはしゃがみこみ、私を覗き込んだ。ため息ひとつ、空に消える。
「やめろって言っても、あんたは聞かないしな」
「お手数おかけします、ネロさん」
「いいって。……ほら」
音もなく現れたのは雨の街で料理を振る舞う料理人で、オルフェンの知り合いで、……私と同じ魔法使いだ。若干呆れた眼差しなのはここ数十年で見慣れてしまっている。彼はネロ。ネロ・ターナー。今でこそ親しく…親しいかは、まあ、相手によるかもしれないけど。あまり自分から関係を築こうとしない私にとっては、友人に近い存在。オルフェンが紡いだ関係の一人だ。
知っていることは少ない。恩人と、友人。それだけ。
「閉店間近に誰にも気づかれずカウンター内に淡々な文章で依頼書を置けるのはあんたしかいないからな。……毎年のことだから、別に無くてもシーヴィエの所に持っていくつもりだったんだが」
「それはだめですよ。それこそ、私の自己満足のものなので」
「自己満足、ねえ」
「はい。それ以外はありえません」
訝しむ夜と夕焼けが交じった双眸が言葉の裏を勘繰ろうと一瞬細められるも、こればかりは諦めもあるのか特に言わずにバスケットを手渡してくれた。中からは出来たての芳ばしい匂いがし、胃は正直なものでぐぅ、と音が漏れる。「ありがとうございます」持ってきてくれた料理と、濡れた服を魔法で乾かしてくれたことへお礼を述べれば、無言で手を伸ばされ私は懐から古びた手帳を取り出した。
……此処は私が感情を捨て置く場所であり、──弔いの場所でもある。
私の師、オルフェンが遺した数多くの遺品を一年に一度、人間に害がないよう跡形もなく燃やしている。
着ていた衣服だったり、魔導書だったり、アミュレットだったり。99回目にもなる弔いは彼が最期まで持っていた手帳だ。さすがにこれには口を挟むことにしたのか、朝焼け色の目が揺らぐ。だけどこちらの方が早かった。淡々と呪文をこぼし、小さくしていた囲いを出現させる。
「ネロさん。──おねがいします」
「……、……ああ、わかったよ」
そうすると、もうネロさんは観念したようだった。
「《アドノディス・オムニス》」
次いで、水面に垂れる一雫の波紋みたいな、静かな声が鼓膜を柔く叩いた瞬間──ごうっ、と囲いに放り込まれた手帳に勢いよく炎が現れた。その炎は囲いに燃え移ることなく、草原には興味がなさげに、まるで生きているように手帳を高温の熱が呑み込んでいく。
爽快な青空にのぼっていく黒煙を見ながら、隣を見た。
この弔いは単に私が始めた方法であって、ネロさんに強要したつもりも、覚えもない。人付き合いが苦手なのもよく知っているから、たった一言いやだといってくれれば私は一人で弔いをするだけだ。つまり何が言いたいのかというと、そういうことなのである。
「あとは、この、匂い袋だけですね」
噎せ返るのも厭わず、一応持参してきた星柄のサシェを掲げた。右から凄まじい顔つきのネロさんの視線を感じるが、構わず続ける。
「オルフェンは亡くなりました。姿形は見えなくなり、声も聴こえない。だけど、マナ石は私が飲み込んだのです」
「知ってる。オルフェンが石になるところも、飲み込んだところも、俺は見たんだ」
「あのときは助かりました。……この弔いも、来年で最後ですから」
ネロさんはなにも言わない。継続の言葉も、断絶の言葉も、声にしない。
存外、静寂に包まれる時間を、私は確かに欲していた。感情を捨て、持たざる者になれば、その隙間に他のものを詰め込めるようになれるから。
人の目には映らない黒煙が滲んでは消え、師匠の魔道具をつよくつよく握りしめた。
──〈大いなる厄災〉がより近づく、前日の話である。