星をかさねて
名のある魔女でも、賢者の魔法使いでもない私が魔法舎を訪れるのはごくごく僅かなことだ。〈大いなる厄災〉の影響が各地で起きている異変の調査を様々な依頼を通して解決に導こうとする彼らの邪魔を、あまりしたくないから。
もちろん、協力を要請されれば助力も吝かではない。なにせ今代の賢者様は超が付くほどのお人好しであり、どんなに否定されても相手を正しく理解しようとひたむきに努力をする、私の知る人間とは程遠い感性を持った人だからで。そんな人間に頼られたとなると、協力してしまいたくなるのが殆どだろう。弱い魔法使いは生きられないとされる北の国でそれなりに有力だった師に師事していたから、私だって、相応に戦える。と、思う。
……ああ、いや。話が逸れたけれど、そんなわけで綺麗に手入れされた中庭を抜け、正規の訪問者とまではいかずとも魔法舎の結界を抜ける分には大して問題はなく。こうして私は談話室にまで通されていた。
「お久しぶりです、ヴィ。何か変わりありませんか?」
──本当に嬉しそうな雰囲気をまとった、己の知る中で至高の美しさを身に宿す若い魔法使いに連れられて。
中央、そして東西南北から無差別に選出された賢者の魔法使いたちは異例の事態に基本魔法舎へ滞在をしているためか、ほんの些細な時間帯でもそこかしこに気配を感じられる。今日は南と北が賢者様と共に出かけているらしく、前に訪れた時に比べてやけに静かだ。
特に理由もないのに気配を探ってしまう自分に自嘲の笑いをこぼし、私はにこやかに眦を下げる。
「大丈夫。そういうヒースくんこそ連日の依頼に疲れてない?」
「俺は平気です。お気遣いありがとうございます」
ふわり。音に名をつけるならこれが一番しっくり来るような、例えば大輪の花が花開くような微笑に、咄嗟に机上に置かれたカップを持ち上げ、口付ける。何も、断じて、彼は悪くはないし。そもそも良い意味でしかないが今のこういった笑顔は、やはり些か眩しいもので。
「それ、ミチルから貰って。品質もよく価値もある茶葉で淹れた紅茶なんです。お口に合えば、いいんですけど」
「ミチルくんに? ……あ、ほんと。香り高いけど後味すっきりで、甘さの中にほんのり苦味がまじってて飲みやすい」
「でしょう? 俺もすっかり気に入っちゃって、よければいくつか持ち帰ってください。好きなものを分けられるの、嬉しいから」
「…………、……売り込み上手」
「え?」
「いやなんでも」
無自覚故のとんでもない響きを伴ったお言葉に、そっと視線をアーモンド色の紅茶へ移した。逃げてはいない。たぶん。「いただくよ」そう言えばぱぁっ、と後光が見えんばかりの嬉しさを滲ませた表情になるのだから、逃げ場がない。
体裁を整えるように咳払いをひとつ。
「それで、ヒースくんの用件は何かな?」
私が今日ここへ足を運んだのは他でもない、ヒースくんの呼びかけがあったからだ。優しいこの子は仮住まいのある東の国へ赴くとまで言ってはくれたが、そこはほら、年長だというのと依頼をこなしたばかりのヒースくんにそんなことはさせられないという理由から、自分から魔法舎に向かうことを提案した。
が、何分ヒースくんは優しく、気遣いのできる子。案の定渋がられながらもゴリ押しでこぎつけたというのはまた別の話。
引っ込み思案となり誰かに指示や、お願いをするのに極度に躊躇いを覚えてしまうのは前の師匠のせいもあるとは聞いてはいたけれど、自惚れではなくヒースくんから頼られる存在であると自負しているから、少しだけ、彼が紡ごうとしている用件に身構えてしまう。できるだけ、力になってあげたいし、寄り添ってあげたい。
「ええっと……そう、ですよね。用件……は、その」
──なのだが。
さっきも言ったがヒースくんはかなりの引っ込み思案だ。外的要因が多々あれど、元からそれほど我は強くなかっただろうヒースくんは簡単に人の嫌がることはしない。けれど歯切れが悪い。つまりは、私に何かがあるのではなく、彼の中で勇気が出ないのか、はたまた。「ん?」聞く姿勢を強調し、笑いながら首を傾げればどうしてなのか、うう、と唸り始める。
「……その、ヴィ。明日の夜って、空いてますか」
結論ではなく前提を尋ねられた。色白の肌に紅が浮かぶのを冷静に見つめられる自分を感じつつ、口角を持ち上げた。
「予定は今のところ。フィガロとの買い出しも先週終わってるからね」
「よ、よかった」
「よかった?」
「あ」
誰がどう見ても露骨に安堵の息をもらすヒースくんにつっこめば、恥ずかしさが勝るのかとうとう碧瑠璃の瞳が逸らされる。
……正直に言おう。私はヒースくんに悪く思われず、寧ろ他の人とは違う感情を少なからず寄せられていることには、気がついている。事ある毎にシノくんに主君の良いところを伝えられ、果てにはファウストさんからのお墨付きを頂いてしまっているし。彼らが、東であるからこそ、そういった類の感情には鋭いと言わざるを得ない。
「……あの、これもミチルから聞いたんですけど。明日の夜、星屑が綺麗に見える谷が南にあるらしいんです」
大事だと、大切だと思える相手に想われて嬉しくないはずがない。割と強めにシノくんあたりに背中を押されているのか、戻された視線の先には既に逡巡の色はなく、一種の覚悟を持って私を射抜いていた。ヒースくん側からの関係性を変えたいという望みはあっても、決して伝えてこない。隠しているつもりはないけど、ほっとしてしまっている。我ながら、……嫌な女だ。
(人嫌いで、人付き合いが苦手な東の魔法使い。……だからこそ、相手をよく見ている)
笑うのは、得意。他人に求められても完璧な笑顔を与えることだって、できないことはない。師匠が好きだと言ってくれた笑顔を、いつだって貼り付ける。
「ヴィさえ差し支えなければ、一緒に、見に行きませんか?」
ヒースクリフ・ブランシェットは、私にとって、世に名を連ねる秘宝財宝や絶景と称される宝玉の光景よりも、まぶしくて、うつくしくて、────ほんのちょっぴり、ほんの、少しだけ。×××××しい。
「…………ヴィ?」
じんわりと手汗をかいた掌を強く握り締めすぎていた。微かに血の赤がぷっくり浮き出ており、それで、頭が冴えた。
悪い癖。考え込むと周囲が見えなくなる。心配げな、それでいて不安そうな声に慌てて俯いていた顔を上げて、わたしは。
「うん、……行き、たいな」
本音を告げる。
嘘も、偽りも、なんにもない本心だった。
「!! やった、……っありがとうございます。ミチルに教えてもらった時、真っ先にヴィの顔が浮かんだんです。ほら、ヴィのマナエリアに近い風景だから息抜きになるかなって」
「……待って。息抜き、って?」
「前回のお茶会の際、ヴィ、ちょっとだけ沈んだ様子に見えたから。気のせいじゃないと思って……俺、あの」
数秒、間が開いて。
「──ヴィには笑っていて欲しいんです」
「……ヒースくん」
「いや、いつも笑ってみんなを見ているのは知ってます。でも、勘違いじゃなきゃヴィの笑顔は、どこか、どこか違うところを見ている気がするんです」
「ヒースくん」
「は、はい! す、すみません憶測の妄言ばかりで」
ああ。ほんとうに。
(よく、見ている)
それがどういった感情から来る観察眼など、もはやどうでもよかった。付き合いの長い魔法使いはいくらでもいる。その中にいる幾人かはオルフェンのことを知っていて、私とオルフェンを襲った凶事の詳細を把握しているのもいて。しかし。何も、言われなかったのに。こんなにも控えめなくせに、絶対に見逃さない強い意志を込めた限りなく正解に近い指摘は、初めてだ。
純粋な気持ちで私を想って、好きでいてくれる彼に応えようともせず、挙句には及び腰になり肝心なことは全て言わないまま、逃げようとしていた。眩しいからと。もう、失いたくないからと。
逃げたい。気安い距離のまま、微温湯に浸っていたい。
そばにいたい。見守っていたい。…伝えたい。
相反するふたつの思いが心を縛って、締め付けて苦しい。
でも。
「……あのね、ヒースくん」
「……はい」
いつの間にか真剣な面持ちに変わっているヒースくんに、なんだか泣きそうになる。
「わたしは、きみと一緒に星屑の谷に行きたい。綺麗な景色を、共に見たいよ」
「うれしい、です」
「だけど。……これにはヒースくんに何も非はないの。自分の問題で、いつか知って欲しいと思うもの」
ありのままを見抜けてしまうきみだから。「だから、」ひたむきに思いを寄せてくれる相手に対して、最大の礼を尽くせるように。
「待っていてくれるかな……? 私たちは魔女と魔法使いだから、約束はできない。ううん、私はしてもいいと思ってる」
いつになれば伝えられるのかは、残念ながら自分でも分からない。無責任な言葉で逃げ道を残していると思われても仕方がない言い分に、人によっては、誠実さに欠ける内容にヒースくんは嫌悪どころか夢見心地みたいな表情を浮かべ、小さく、緩やかに首を横に振った。「約束は、いりません」そしてあの夕焼けの下で行われた茶会で見せた笑い方をして、立ち上がり続けた。
「俺はヴィを信じてますから」
「手放しの信頼をして、私が悪い魔女だったら?」
「だって、これまでに俺や、俺たちに不誠実だった時ってありませんよね。あなたを──俺が見つめ続けたシーヴィエ・ロドリーグを、俺は信じます」
内心逃げたがっていた愚かな感情で湧き出た警告にも、ヒースくんは退かない。
「どうか泣かないで。ヴィ、……泣かないで」
無理だった。目頭が熱く、頬を伝うそれを抑えられる術を私は数百年生きてきても知らない。濡れるのも構わず黒い指先が頬に添えられ、より一層、悲しくないのに泪が溢れ出てしまう。
(わたし、わたしは、)
このひとを、裏切りたくない。身の丈に合わない、返しても返し尽くせない慈雨を、どうかわたしは信じたい。
勇気を出したい。恐怖も、悲しさも、きみに見せて、どうか……どうかこれから先もきみのそばで、見守らせて欲しい。
どこかにある鐘の音が聴こえた。
──それでも、大丈夫だと思えた、何かが変わり始めようとしているそんな、日。