はじまりの章

 ざっ、ざっ、と真新しい雪を踏みしめる音と、時折両手に吐き出す息の音しか聴こえない、白い世界の中。慣れた足取りで迷うことなくとある場所へ向かう少女がひとり。手に持っているランタンに火を灯し、目印となる大樹の傷に視線をやりながら少し考えた末に立ち止まり、息を整えようと防寒着の合わせに手を添える。
 例年より寒さの厳しいこの地に来るのは、なにも初めてではない。むしろ日々を過ごす街に住む人からすると首を傾げるほど赴いていて、寒さにこらえる時もあるが我慢して得られるものが多く、息抜きのようなテンションなので大した問題ではなかった。定期的に手紙を出さねばならない相手へも、先ほど出したばかりで時間の余裕もある。

 ───だからほんの少し、ほんの少しだけ寄り道をしようと平素とは違う道へと歩き出したのが、運命の始まりだったのかもしれない。

「……ふう、そろそろジェノスに戻らなきゃ」
 紅梅色の小さな花々が木々の隙間から差し込む陽射しを受けて咲き誇る、自然豊かな穴場の花畑の端から立ち上がり、独り言をもらす。前回来た時と何一つ変わらない風景に他の人間がこの場を知らないことを示していて、無意識に口角があがる。次来る際は幼馴染を連れてくるのもいいかもしれない。
 散歩を終えて本来の目的である採取も滞りなく完了し、あとはジェノスを経由して戻るだけだ、と踵を返しかけたその瞬間。……空を切るような音を、耳が拾った。
 咄嗟に振り向けばさほど遠くない上空を何かがとてつもない速さで落下していった。それだけでも驚きだというのに、瞬く間もなく湖の水面に触れ大きな水しぶきがあがる音が続く。周囲の木々にとまっていた何十羽もの鳥が慄いて飛び立つ異様な光景を目にした。
(な、なに……? いま、何が落ちたの?)
 ありえない出来事に心臓が高鳴るのを嫌でも感じながら、落ちた方角を凝視するもここからでは影一つ見えない。
 ただ分かるのは、少なくとも見えた範囲であの高さから落ちたのであれば、もし落下物の中に誰かがいれば無事では済まないこと。人間に備わったある程度の好奇心に駆られて見に行きたい衝動が生まれるが、魔物を退ける力さえ多くない自分に何ができるのかと自制して、落ちた人の無事を心の中で祈りながら少女は深呼吸をして今度こそ踵を返した。
 花のような色を持つ髪の一房が風に遊ばれ、ひときわ強い風が吹く。一房どころかまとめていても暴れる髪を押さえて、風が過ぎ去るのを待つ。
「あ〜〜もう、ぼさぼさになるっての!」
 届くわけがない風への文句をぼやいて、悲惨なことにならぬためにより強く髪を押さえる。
 しんしんと降る雪。
 なびいて視界に入る桃色の髪。
 揺れる。揺れる、なにか。
 一瞬過った“だれか”に意識を集中させるが何も見えない。それに輪郭すらおぼろげなものを追いかけるなんて、最初から無謀だったのかもしれない。物心ついた時から過るそれは一種の懐かしさを感じ、手を伸ばさなくてはならない、握りしめて抱きこまなくてはならないという謎の感情さえも浮かぶ。知りたいと思っているのにまるで弄ぶように消えていく影に深く大きなため息をついて、暴れ切った横髪を耳にかけて、歩みを再開させた。
 目指す先はジェノス。帰るべきところ、セインガルドとの国境も担う町だ。
 予定としては自身が営む骨董喫茶で働く人たちに休んではどうか、という申し出もあり数日間ハーメンツでのんびり羽を伸ばしつつ、先ほど採取した薬草の調合を試みる。ここまで順調に進んでいる計画に単純でも機嫌が良くなるのを自覚しながら、少女───シェス・アリッジメントは鼻歌をうたってジェノスの門をくぐったのだった。







 所変わり、セインガルド王国首都ダリルシェイドの港にて、木製の籠を肩にぶら下げた飛脚から水玉模様の手紙を受け取る少年がいた。それ以外に用件はなく足早に人気のない路地に向かい、背を壁にもたれて丁寧に封を切って中身を取り出す。
 宝石のように綺麗な紫水晶の双眸が並んだ文字を追いかけ、読み終わると同時に呆れの含んだため息を吐き額に手を置いた。
『シェスからの手紙ですよね? なんて書いてあったんですか?』
「あのばかものめ……話が飛び飛びすぎだ。もう少し順序を立てて書け」
『あはは……彼女らしいといえば、彼女らしいですけどね。元気にしてる感じですね、その様子では』
「元気に決まってるだろう。まったく、ジェノス産のプリンを土産にするなどとも言っていたな……」
 邪険に扱う言葉を吐きながらも、汚れや傷がつかないように優しく手紙をしまう少年の仕草に、ふふ、と笑う青年の声が響く。もっとも、この“声”は素質ある者にしか聴こえないが。
「おいシャル、笑うな」
『すみません……でも、早く帰ってくるといいですね』
「ふん、あいつがいないと調子が狂うからな。そろそろあの味も恋しい」
『それを彼女に直接伝えればいいのに』
「……そうか、シャル。真冬の海はさぞ冷たいだろうな」
『わーー! ごめんなさい嘘ですもう言いません!』
 途端に平謝りをする愛剣にもう一度鼻で笑い、少年は北の空へ視線を向け、目を閉じる。
 軽快なこのやりとりだけを聴けば親しみやすい性格だろうと考えるだろうが、そうではない。彼は生まれと出自、周りの期待もあいまって心を許した存在にしか年相応の性格を見せない。ベクトルは違えど年相応の振る舞いをするのは常に共にある愛剣・シャルティエと、ダリルシェイドで一番大きな屋敷に仕えるメイドの女性、そして、彼らの話の中に出てきたシェスだけだった。
「行くぞ、シャル」
『はい、坊ちゃん!』
 手紙を受け取る前よりも少しだけ心持ちが軽くなったような感覚に身を委ねながら、少年───リオン・マグナスは己のなすべきことのために足を踏み出した。



拝啓 リオンへ

今回も特に問題なくファンダリアに着きました。魔物除けの薬の効き目もあってか、一度も襲われることもなかったんだよ。すごくない?
ダリルシェイドにはほとんど雪が降らないから、こっちに来ると不思議な気持ちにさせられるの。あ、任務とか王命とかでリオンも雪見たことあるよね、忘れてた、あはは!
そうそう、わたしがよく行く薬草の生える花畑って知ってるかな? 穏やかな色合いの花が咲く場所なんだけど、さすがにリオンでも知らないかもしれない。次行くときは一緒に行こうね! お昼寝してもいいかもしれない! うん、我ながらいい考えだと思うんだ。シャルティエさんもよければどうぞって伝えておいてね。
息抜きと休暇も兼ねてるから以前より遅い帰りになるかもだけど、帰る時も手紙を出します。わたしがいない間も怪我とかしないでよね。心配するから。
それじゃあ次の手紙にて!





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