再びベルの場合
■ ■ ■
「雛香っ」
ぐいっ。
「うえっ、襟元引っ張んな馬鹿」
「ししっ」
ぱっと手を放したベルに、雛香は軽く咳き込み、恨みがましい目を向ける。
「首絞まるってのベル」
「クソガエルやら隊長のせいで、ゼンッゼン雛香のことかまえなかったからなー」
「別にかまって欲しいなんて言ってねーよ」
「ししっ、ホントかよ。俺に会えなくて寂しかったんじゃねーの」
「24にもなってガキか俺は」
ベルは歯を見せて笑うと、白い目でこちらを見始めた雛香の肩に腕を回した。
「何」
「俺の部屋来いよ」
「…どーいう誘い方」
「誘いってのは理解してんの?」
「ははっ」
顔を寄せて軽く囁けば、雛香はぷはっ、と吹き出すようにして笑う。
「ベルってほんと、意味わかんねー」
「…こんだけアタックしてんのに、なんでカケラも気付かねーかなあ」
「?何か言ったか?」
「いーやべっつにー」
まあとりあえず、俺の部屋来いよ。そこなら邪魔も入んないし。
は、俺別にココに遊びに来たわけじゃないんだけど。
いーじゃん雛香、どうせヒマだろ?
誰がだバーカ。
10年という月日が確実に縮めた距離を表すように、軽いやり取りを交わして2人は歩く。
背丈の違う2つの影は、そのまま廊下の角を曲がって奥へと消えた。
「……で?」
「で、って?」
「この状況は何?」
「押し倒してる」
「んじゃどけ」
「、ッと!」
間一髪、ベルが肩をすくめるその真上、
掠めていく銀のナイフ。
「…雛香って、まだナイフ使ってんの?」
「まあたまに。最近は匣が主流だしなあ」
「ししっ、ちょっと嬉しーかも」
「なんで」
「俺とおそろじゃん。未だにナイフ、交換したままだし?」
「…たまにベルってマジで天才なのか、疑う」
「はあ?」
ギシリ。雛香を軽くベッドに押し付け、ティアラをのせた男は笑う。
「王子は天才だっつーの。…あーあ、部屋の天井に穴あけやがって」
「お前が避けるからだろ?」
「…なー、雛香」
ずるり、ベッドから落ちかけた雛香の腰を片手で止めて、ベルは少しだけ笑みを消した。
「…何」
「なんでいきなり来たワケ」
「どこに」
「ふざけてんなよ。ここ、ヴァリアーに決まってんだろ?」
「…フランに、ヘルリング返しに来た」
「んなの、誰かにやらせりゃいーじゃん。わざわざ雛香本人が来た、その理由が俺は知りたいの」
「…別に?本当にそれだけだって、」
「嘘つくなよ」
ガッ、とベルが雛香の首を押さえる。
ベルの突然の行動に、首を絞められる格好になった雛香は動じず、ただ目を細めた。
「…ベル、俺は――」
「俺お前の事好きだからさあ、雛香」
隙見せると、食っちゃうよ?
何か言いかけた雛香の唇を塞ぎ、
ベルは覆い被さるようにしてその体を押さえ込んだ。
「…っ、べ、」
「ハイ聞かないから」
今更睨んでも俺のせいじゃないし。
それに俺、王子だもんな?
手に入れたい物をいつまでも黙って見てるだなんて、ありえねえし。
「…だからさー、雛香」
でもわかってるんだ、
微妙な関係保ったまんま、互いに少しも口に出さないけど、
でもどうせ、お前が好きなの雲なんだろ?
「王子に手に入んねー物とかいらねえから、」
10年前から変わらない、
追いかけてばっかで見向きもしない黒い瞳。
そうだ、雛香。きっとそうだろ。
そんな影のある目でわざわざここまで出向いた理由はただひとつ、
俺に終わらせてもらいに来たんじゃねーの?
「……いっそ、このまま殺してやろっか」
ナイフでも匣でもなくただこの両手で、
掴んだこのほっそい首を、ひと思いに。
「…、は、はは…っ…」
「……は」
見下ろす。
両の手の中、込めた力を緩めてーー見つめた。
確かに絞めかけた首の上で、口元を緩めて笑う、青年の顔を。
「…雛香?」
「…かもな」
俺、いっそ殺して欲しいのかもしれない。
告げられた言葉に、ベルは思わず固まる。
何を言っているのかわからない、そんな思いで相手を見下ろせば、目が合った雛香は喉で笑った。
らしくない、暗い笑い方だった。
「……ちょっ、雛香」
お前、マジでどーしたんだよ。
言い掛けたベルの下、雛香が両肘をつき体をゆっくり起こす。
ずるり、ベルの体が自然と雛香の上から降りれば、彼はそのまま上半身だけ身を起こし、俯いた。
「……夢を、」
「は?」
「夢を、見るんだ。……誰かが呼ぶ声」
「はあ?なに言って、」
「俺はそいつを知ってる。間違いなく知ってて、すきで……そいつが伸ばしてくれる手を、躊躇なく掴むんだ」
「雛香、」
「でも俺はそいつなんて知らない。見たこともない。なのに夢の中の俺は、絶対拒まないんだ。……夢の中の俺は、そいつしか知らない」
「……、」
「ここんとこ、毎日見るんだ。嫌な予感と、その夢……出てくる、そいつの名前は」
白蘭。
ベルは雛香を見つめた。相手が俯いているせいで、ベルの目に映るのははらりと揺れ落ちる黒髪だけだ。
「…ちょっと待てよ。白蘭って今、あちこちで好き勝手やってるっていうー」
「ああ。ミルフィオーレ、そのボス」
「…おかしいだろ、それ絶対ただの夢じゃねーじゃん。だいたい嫌な予感ってなんだよ、雛香そーいうの外れたことないだろ今まで、」
「ベル」
堰を切ったように話し始めたベルの前、ふいに白い手が伸ばされる。
ベルが瞬きをした刹那、ぎゅうっと首に腕が回され、しがみつくように抱きしめられた。
「…?!、え、おい雛香、」
「……い」
「は」
「怖い」
きゅっ、と首を引き寄せる腕に力がこもる。
数秒、ぽかんとベルは口を開けーーそれから、とりあえず何も言わずに背中を撫でた。
強く首筋を抱きしめられて、少々息苦しさはあったが。
「…夢の中で、俺は全部…全部、知らない…平気で忘れてるんだ。ベルも、ボンゴレも、雛乃も、…雲雀も」
「……。」
「…目が覚めて、いつもわけわかんなくなる。…なんで忘れられるんだろって」
だって俺、全部大好きなはずなのに。
耳元で聞こえる声が微かに震えていることに気が付いて、ベルは一瞬、息が詰まった。
背中に回した手が、見かけ以上に細い身体に触れる。
リングを懸けて闘った、あの日から10年経った。
10年経って、確実に中身も見た目も成長して、なのに――。
今、目の前で首に縋り付き震える雛香の事を、安心させる術を、自分は何ひとつ知らない。
雲ならなんて言うんだろうな。
一瞬、そんな馬鹿な考えが頭に浮かび、消えた。
「……ベル」
ぐ、と雛香が胸を押し、離れる。
強く引き寄せられていた腕がなくなった首は、やけに寂しく感じられた。
「ありがと」
そう言って顔を上げた雛香は、いつもと何ら変わりない表情のまま。
その姿が、妙に遠く現実味のないように感じられて、ベルは思わず手を伸ばした。
「雛香、」
「最近、雲雀にも勘付かれてアレコレうるさくてさ。でも、こんなこと言っても仕方ないし、馬鹿馬鹿しいだろ?…お前なら笑って聞き流してくれるような気がして」
「オイ、」
「だからうっかり余計な事言っちゃった。…今の忘れて」
「雛香!」
流れるように立ち上がり、扉へと向かいかけた雛香の腕を、強く引く。
振り返ったその顔に、口を開いて、――黒い瞳に浮かぶ感情に、気が付いた。
息を呑む。
「ベル」
真っ直ぐな、光。揺らがない黒。
いつもの、―いや、違う。
「次、会えた時は――ちゃんと、たくさん話そうな」
ボンゴレの事とかヴァリアーでのもめ事とか、…きっと、話題には困らないだろ?
そう言って笑った瞳には、――覚悟を決めた、確かな色。
「…雛香、」
「何」
緩やかにベルの腕を放し、扉を開けた雛香が振り返る。
最後に、引き止めるようにして呼びかけていた。
そんなわけはないのに、まるでーー。
これが、最後のような気がして。
「…また、会えるよな?」
らしくなく、語尾が震える。
一瞬目を見張った雛香は、次の瞬間ふっと笑った。
馬鹿じゃねえのと、そう笑い飛ばすような優しい笑みで。
「ああ。…また」
そうして、扉は閉まった。