刻み込む呪詛
「……ん」
雲雀恭弥はふと顔を上げ、廊下の向こうを横切っていく小さな影に目を細めた。
「……ほんっとむかつく、まじありえねえ……ッ?!」
「何ぶつぶつ言ってるの、あと油断しすぎ」
「チッ」
掴んだ腕は即座に振り払われた。手加減など欠片も無い。強情な態度も健在のようだ。
「どいつもこいつも……くっそ」
「何怒ってるの、珍しいね」
「るっさい」
「おっと」
飛んできた拳をひょい、と避ける。だが相手はそこまでお見通しだったようで、避けた先に鉄拳が来た。
だがただの拳ではない。ピン、と指先まで伸ばされたそれは、人間離れした鋭く長い爪を刃のごとく携えていて、つまり雲雀の肩の柔肉を突き刺すための凶器と化しており――。
「はいストップ」
「……ッ!」
ぱし、と軽い音とともに凶刃は止まる。
いとも容易くリネイアの手首を掴んだ雲雀は、頭ひとつ分下で荒い呼吸を繰り返す少年へ、怪訝そうな目を向けた。
「どうしたの、君。今日は本当に荒れて――」
る、と言いかけた声は喉で途絶えた。
ぜえぜえと肩で息をしながらこちらを睨み上げる彼の瞳は、その赤い虹彩の迫力を増強させるかのようにぎらぎらと獰猛に光っていた。
掴んだ手首の元、二の腕が微かに震えている。痙攣じみた微弱な震えに、雲雀は目を細め思案を巡らせた。
果たしてこれは怒りから来るものなのか、それとも――。
「っ、放せよ」
「……君」
眼下、勢いよく暴れ出すリネイアの手首をさらに強く掴み上げ、雲雀は確信を強めた。
やはりだ。この少年に限ってそんなことはないと思っていたのだが、これはもはや断言するしかない。
彼は、リネイアは――怯えている。
「……ねえ、何があった、」
の、と言いかけまたも言葉はつっかえた。
ある一点に、視線が釘付けになる。
まさか、という思いと、ああそれで、と妙に冷めた納得の意が胸をよぎった。
はだけた黒い衣服の胸元、僅かに覗く白い肌。
15という年齢に釣り合わない細い鎖骨のチラつくその真上に――白い、白いガーゼとテープ。
この程度の怪我、晴の匣があれば一発だろうに。そんな考えがちらりと脳の片隅に浮かんで、我ながらなんて間の抜けた思考回路だろうと思った。
あの男が、そんなもの使うわけがない。むしろ、嬉々としてこれほど大げさな手当てをわざと施したのだろう。吐き気がする。
「……リネイア」
「何だよ」
静かに名前を呼べば、彼はキッと刺すような睨みを効かす。
相変わらず肌を震わすような殺気だった。いつまで経っても変わらない、付け入る隙など無い態度。
その気迫に、先ほどとは違う意味で全身が熱くなる自分がいる。舌なめずりしたい気分だ。強くて惑わされない、格好の獲物を見つけた気分。
掴んでいた細い手首を今にも壁に叩きつけたい衝動を抑えて、雲雀は低く囁いた。
「……六道骸に"契約"されたんだね」
「ッ!!」
わざと無感情にそう紡げば、わかりやすくリネイアの肩が跳ね上がる。視線が揺らぐ。
同時に肌を刺す殺気もぐらりと揺らいだのを感じ、雲雀はうっすら笑みを浮かべた。
本当に、困ったものだ。
見透かせないようでいて、たまに垣間見える無防備な姿。微弱に慄くその内。
「身体は大丈夫かい?」
わざと柔らかに言葉を重ねる。掴んだままの手首を引いて、その背中に腕を回す。
六道を批難しておいて、自分だって似たようなものなのだからお笑い種だ。己の造り物の優しさに思わず乾いた嘲笑が浮かぶ。
ボンゴレのため、素性を暴くため、敵かどうかを確かめるため――。
いくつもの大義名目を掲げておきながら、その実中身はたったひとつだ。おそらくあの紫頭も同じだろう。
彼が、欲しい。
「……っ、触んな」
「どうしても嫌だと言うなら、離れるけれど」
回した手のひらで、骨の浮き出た背中を撫でる。細くひ弱そうな肩甲骨に、そっと指を滑らせた。
欲しい――その感情に、嘘偽りは無い。
おそらく沢田あたりなら、その感情に体のいい名前でも付けるのだろう。支配欲だとか好奇心だとか、憐憫だとか愛情だとか。
だが、雲雀にはあいにく興味が無かった。ただ欲しいだけ、それ以上でもそれ以下でもなくただそれだけ。興味、加虐心、戦闘意欲、まあなんだっていいがそれしかないのだ。自分が、このひとまわりも下の少年に感じる全ては。
「……いい。離せ」
リネイアの腕が、雲雀の胸元を押しのける。だが、雲雀は引かずにあえてその腕を受け入れた。体はそのまま、顔だけ動かし小さな耳へと口を寄せる。
決定的な、一撃を与えるために。
「血は足りているの?」
びくり、と。
細い背中が強張るのを、雲雀は撫でていた指から直に感じた。胸底で、興奮に似た何かがうねる。
捕らえた。
眼下、ただでさえ白い頬がさっと青ざめた気がした。いや、気のせいではないだろう。肩をわななかせ黒い髪を震わせた、その態度。次にぱっと上げたあどけない顔の奥底で、驚愕に見開かれ動揺に細まる、縦長の赤い瞳孔――。
ゾクゾクした。今にも笑い出しそうになるのを、必死で堪える。唇を噛み締める。
やはり、やはりか。やっぱり彼はそうなのだ。数多の資料をかき集め情報を吟味し、その結果辿り着いた、ひとつの推測。
それはたった今の今まで、推測以外の何物でもなかった。だがこの瞬間、確信に変わる。
「……お、まえ……なんで……」
「ただでさえ人間の血を摂取してないから死にかけなのにね。これで六道に契約ついでに出血なんてさせられて、今にも枯渇して死ぬんじゃない?」
「ひばり、お前……!」
「ねえ、哀れな吸血鬼(ヴァンパイア)」
信じられないと、その目が叫ぶ。
赤い光を宿した瞳は、今雲雀の顔しか映していなかった。うっすら口角を上げて見下ろす、慈悲深い笑みをたたえた雲雀の顔しか。
「……っ、なん、で……」
「僕の情報網を甘く見ない方がいいよ」
震えるリネイアの耳元へ、刻むように微か囁く。だが、そこでふとあることに思い当たり、雲雀は顔をしかめた。
僕の、と言っておきながら、おそらく自分以外にも真実に辿り着いている人間が、1人、いる。
『……あんまり、リネイアのこといじめないでくださいね。雲雀さん』
ほんの数分前、重厚な机の向こう、組んだ両手の上に顎を軽く乗せて椅子に座していた男の姿が脳裏に浮かんだ。人の良さげにニコリと笑った、あの態度。それまで実に事務的なやり取りしかしていなかったにも関わらず、突如彼はそう告げ爆弾をぶっこんできた。いつもと何ら変わらぬ、平然とした態度で。
思わず、リネイアをかき抱く腕に力がこもる。
「ひ、ばり……?くるし、」
「ああ、ごめん」
そうは言いつつ解放してはやらない。顔をしかめる少年の頬にぐいっと手を添え、その深紅の瞳を覗き込んだ。
リネイアがはっと息を呑む。薄く開いた唇から零れる吐息がこちらの唇をくすぐるのを感じながら、雲雀は卑怯とわかっていて、低く囁いた。
まるで魔法のように、呪文のように。
「リネイア……君の秘密、僕が守ってあげるよ」
まるで、呪詛のように。