秘密のクッキングタイム 「…え、ちょっと何してるのよ雛香」 「何してって、見てわかんだろ」 ホラ、と雛香は手にしたヘラを上にかかげた。 匂いを嗅ぎつけたビアンキが調理場へ来る10分前、 こっそり治療室を抜け出した雛香はスコーンを作り始めていた。 なぜにスコーンかと聞かれたら、材料の問題だと開き直るしかない。食料庫を覗いたところ、ご飯系より菓子作りが得意な自分に可能そうなのは、スコーンだけだったのだ。 「…あなた、料理得意だったのね」 「んー、別に普通だけど、菓子作りは好きだな」 雛乃は甘い物好きだからな、作るとすっごく喜ぶんだよ、とどこかうっとりとした表情を見せる雛香に、ビアンキは呆れて言葉も出ない。 この10年間いやと言うほど見てきたので、雛香と雛乃が互いに異常な愛情を注ぎまくっているのは、もちろん彼女もよくご存知である。 「っていうより雛香、あなた安静にしてなくていいの?」 「体面上はダメ」 「馬鹿ね」 今度は呆れの言葉がちゃんと出た。 だがボウルの中身をかき混ぜる雛香は、首だけ回しにっと笑う。 珍しいわね、とビアンキは内心で呟いた。 10年前は知らないが、少なくともこの時代の彼はあまりそんな笑顔を見せなかった。 「だって嫌だろ。みんな入江正一を倒すために、過去に帰るために頑張ってるんだ。俺だけ安静だなんて、んなこと…」 バカバカしい。 呟いた彼が目を落とす手元のボウル、 その中身の生地はきれいにまとまっていた。 雛香の手付きを見れば、彼が普段から作り慣れているのであろうことは予想がつく。 料理を殺しの手立てとする自分でなくても、おそらく誰にでもわかること。 「…今のあなたは、脆弱すぎるわ」 黒い瞳が、すっとこちらを向いた。 細められたそこに揺らめく、静かな炎。 「…何だよそれ。どういう意味」 ああ、 と、ビアンキは息を吐いた。 10年前といえば、自分はまだ彼と関わりのない頃。 それでも、彼はこの歳からこんな目をしていたのだ。 人を突き刺すような、まっすぐで深い鋭い黒。 「…10年後のあなたは、『催眠』を使うことはなかった。幼少期に多用した反動は時々来ていたようだけれど、薬で抑えていたわ。少なくとも私くらいの人間には気づかない程度には、体は回復していたと言っていい」 「…へえ」 で? 鋭い瞳が、射るようにぎらりと光る。 10年戻っても、同じまっすぐで凶暴な、それ。 この子も結局マフィアの子なのね、とビアンキは頭の片隅で考えた。 「…『催眠』を使わなかった、10年後のあなたでも薬を必要としていたのよ。無理やり使った上になんとか一命を取り止めたあなたは、何が起こるかなんてわからないわ」 雛香は、黙ったままだった。 その手に抱かれたボウルが、電気の白い光に反射し煌めく。 「あなたは、今にも死ぬかもしれないのよ」 ねえ、 もっと自分のことを大切にするんじゃなかったの? ふい、と雛香が視線を逸らした。 その手からシンクへ、ボウルが音も無く置かれる。 彼は背を向け、再びヘラを持ち中身を混ぜ出した。 「…ちょっ、雛香、」 「ねえ、ビアンキ。俺10年前はあんたとあんまり面識ないから、正直どうしてここまで気にかけてもらえるか、わからない」 脈絡のない雛香の言葉に、ビアンキは眉をひそめる。 「……でも、その心配の気持ちが本当だってことは、わかる」 ぴたり、背を向けたまま。 雛香は、不意に手を止める。 「ありがとう。…でも、俺は今までずっと、守る人間の立場でいようとしてしてきた」 だから。 「…今更、丁寧に扱われて守られるなんて、我慢ならないんだよね」 カタカタ、軽い音とともに生地を練り混ぜる雛香の背中を眺め、 ビアンキはただため息をついた。 その小柄な背中に被さるのは、 同じ黒の髪を揺らして笑む、ほんの少し大人びた顔。 よく弟が突っかかっては、2人してアジトを騒がしくしていたっけ。 …まったく。 「わかったわ」 「ビアンキ?」 突如隣に立ったビアンキに、雛香はぎょっとした顔で見上げる。 「私も手伝ってあげるって言ってるのよ」 ひょい、ぽかんとする雛香の手からボウルを奪えば、 あ、と彼は慌てた顔をした。 「ちょ、待てよビアンキ、」 「そうすれば早く終わるでしょ」 終わったら、あなたは早く治療室に戻りなさい。 そっけなく付け加えた言葉に、 ぽかんとしていた雛香の口元が、ふっと緩んだ。 「…何」 「や、ビアンキって案外優しいんだな、と」 「案外ってどういうことなの?」 「った!おま、安静にしとけって言った相手にひじ打ちとか…!」 「失礼な事を言うからよ」 「だからって…って、おい待て!ポイズンクッキングにするな!だから止めたんだよさっき!」 「これだって美味しいわよ」 「そりゃお前の主観だ!」 返せよボウル!と喚く雛香からボウルを遠ざけ、涼しい顔でビアンキは生地をまとめる。 何やら悪態をつきながら、しかしボウルに手を伸ばす彼の口元は確かに笑んでいて。 …なるほどね、と横目で思う。 こういうところに、隼人はやられたのかもしれない。 「何考えてんだビアンキ」 「何もないわよ。…ほらあとは焼くだけ」 「焼くだけ、じゃねえよ!だから虫を付けんな!やめろ!」 |