混乱の底 「……はっ、…あ、」 「……チッ」 舌が抜かれる。ピチャリ、と濡れた音を立てて唾液が顎をつたっていった。 ぼうっとする頭の芯で、声の出どころを探せと確かに命じられる。緩く目を動かす。 聞き間違いだと思った。 だから頭上で獄寺が苛立だしげに小さく舌を鳴らしたのも、冷たい空気が廊下を流れたのも、一瞬、肩が跳ねるほどに胸が痛んだのもー全て、気のせいだと。 そう、思いたかった。 「……獄寺、隼人」 聞き間違いでは、なかった。 今1番聞きたい、けれど1番聞きたくないーあの、声。 廊下の向こう、ほんの少し離れたそこで、 着流し姿の雲雀が、手に瓜を掴み佇んでいた。 ひばり。 名前を呼ぼうと口を開いて、音にならなかった。 だって、なんて言えばいい。何を言えば。 意図的ではない。けれどこんな場面を見られて、誤解も何もない、間違いなく、これはー。 身体が冷えていく。 未だ濡れたままの唇が、吐き出した息と同時に乾いていくのを感じた気がした。 「……く、」 ぽつり、雲雀が何か呟いたのがー聞こえた。 「…え」 今、なんて。 整いつつある呼吸の合間に、そう訪ねかけて、 瞬間、 全ては、一瞬だった。 ダンッ!! 「ッ!」 「隼人?!」 「君の匣兵器だろ」 にゃあう、と場違いなほど心配げな声が響く。 床に飛び降りた瓜が、壁に叩きつけられた獄寺のもとへと走り寄っていった。 「ッ、雲雀、なんで、」 「なんで?」 やっと感覚の戻ってきた足に力を入れて、ふらふらと立ち上がりながら雛香は信じられないと疑惑の目を向ける。 だが、雲雀の顔を見てー凍りついた。 「馬鹿じゃないの」 「っ、うわっ、え、ひばりッ、」 昼間の手当てなどとは比べ物にならない乱暴さで、ぐいっと腰を抱き上げ担がれる。 気遣いも何もないその動作に、雛香は焦って声をあげた。壁にもたれかかり、ぐったりとしたまま動かない獄寺のことも気がかりだ。 「ちょっ、降ろせっての、なんでこんないきなりー」 バン! 息が、止まった。 後頭部がずきずき痛むのも、叩きつけられるようにして転がされた床の冷たさも、全て遠く感じながらー目の前の、黒い瞳を見つめた。 床に引き倒した雛香の上、 覆い被さり低く唸るー雲雀の顔を。 「…君が、」 「……え、」 「もういい」 ぐっと腕を引っ張られる。昼間付けられた傷口が痛んだ。 「っ、痛、雲雀ッ、」 「煩い」 さっき床に倒しておいて、今度は強引に立たされる。 一瞬、交錯した視線はー次の瞬間、腰を抱き上げられて行き場をなくした。 「ひば、」 「黙れ」 低く冷たく、吐き捨てるように言葉が降る。 雛香は思わず口をつぐみ、雲雀に抱き上げられたまま、凍りついたように遠のく廊下を見ているしかなかった。 その向こう、壁にもたれかかり動かないー銀髪の姿を。 「……ちっ、あいつ…」 鈍く痛む頭に手をやって、獄寺は低く舌打ちをする。 「手加減なしにやりやがって…」 痛む体をゆっくり起こせば、にゃおう、と心配そうに見上げる瓜の姿。 「瓜…お前は大丈夫だったか?」 囁き頭を撫でれば、小さく鳴き声が返ってくる。 無事そうな様子に安心し、獄寺は深く息を吐いた。 ー隼人。 濡れた、黒い瞳。 「…あー、くっそ…」 呻き、がしがしと無意味に頭をかく。 「ほんっと腹立つ…」 唇をきゅっと噛み締め、さっきまで口付けていた相手の顔を思い浮かべてー獄寺は、またも静かにため息をついた。 今にも泣きそうな顔をした、雛香の顔を。 「……くっそ」 煙草に火を点ける音だけが、 未だ薄暗い廊下に、微か響いた。 |