大人組のこころ 真っ暗な中、コツコツと歩みゆくぶれない足取り。 前をずんずん進む人影に苦笑し、雛乃は壁のスイッチを押した。 途端、パチンと電気が点き、廊下は一気に明るくなる。 「…もー、雲雀さん、電気ぐらいつけてから行きましょうよ」 「電気なんか無くても歩けるでしょ」 「そりゃあそうですけど…」 すたすたと先行く雲雀を追いかける。 彼に待つだなんて容赦はない。さっさと追いつかなければ置いていかれるだけだ。 「…でも誤算だったなあ」 「何が」 2人分の足音が廊下に響く。 雛乃は駆け足で雲雀の横に追いつくと、その無表情を見上げた。 「今の雛香は方向音痴、すっかり治ってたんで…10年前のこと、忘れてました」 「僕は昔も、あまり彼が方向音痴だと感じたことはなかったけど」 「や、なんか目印があるような所は大丈夫なんですよ。こういうどこも同じような施設とかホテルとか、あと森とかはダメなんです。幼い頃、よくさまよいかけてました」 「…ふうん」 「でも、なんでか僕はわりかしそういうの勘が効くんで、そういう時だけ僕が雛香の手を引けて…ちょっと優越感、感じてました」 「へえ」 「雲雀さん」 「何」 雛乃は思わず苦笑する。 「その、『僕の知らない雛香の話ムカつく』って顔やめてくれます」 「何それ僕の声真似?下手だね」 「もう」 雛乃は苦笑を消せないまま声を立てて笑う。 一方、雲雀はムッとした顔のまま、廊下をずんずんと早足で進んでいった。 「…というか、君達双子なのにそういうところは鈍いんだね」 「そういうところ?」 「10年前から来た彼が、方向音痴だってことだよ。今の今まで気がつかなかっただなんて」 「ですよねえ、最初の森でもきっとそうだったんだろうなあ…うーん、そう言われると不覚ですけど、なんか、やっぱり10歳の差って大きいなあ、って思います」 ちらり、雲雀は隣を見下ろす。 自分より随分低い背の彼は、困ったように笑いながら、その黒い目をやや伏せていた。 「…ふうん」 14歳と24歳。 双子とはいえ、いや双子だからこそ、そこは微妙な距離間なのかもしれない。 無言で考えにふける雲雀の横、ふいに雛乃がぱっと顔を上げた。 「あ、そうそう雲雀さん!」 「何急に」 「雛香に手出したら殺すんで」 危うくその場でつまずきかけた。 「……は?」 止まりかけた足を動かし、なんとか何ともない体を取り繕って隣を見る。 途端、こちらを見上げニッコリ笑う顔と目が合った。その黒い瞳が氷のごとく冷ややかなのが、とてつもなくタチが悪い。 おそらくたいていの人間なら肝を潰しているところだろう。もちろん、自分に限ってそんなことはありえないが。 「…雲雀さん、まさかもう手出しました?」 「何言ってるの?」 「…ちょっと待ってください、まさか本当に出してます?え、まさか僕の可愛い雛香に?嘘ですよね?」 「……この時点でそれだけの炎を灯せる君に、ある意味感動するね」 雲雀の呆れた視線が向く先には、煌々と光る雛乃のリング。 宿る藍色の炎は、兄への常人離れした愛情をはっきり表しているようだ。 「…だって」 ぶう、と子供のように頬を膨らます雛乃。 「…雲雀さんですよ?咬み殺すが口癖なだけあって完璧に肉食ですよね?何かあったら速攻で食らいつくタイプでしょ?…うわ殺す」 「…飛躍しすぎ」 自分で言っておいて一体何を想像したのか、横を歩く雛乃はぎゅうっと両の拳を握りしめ、殺意にわなわなと肩を震わせ出す。 あまりのブラコンさに、雲雀はこめかみを押さえため息をついた。本当に、この弟は。 「…何を想像してるか知らないけど、僕は14歳に手を出す気は無いよ」 ため息まじりに呟き、雲雀は前を向く。 無駄に長いアジトの廊下は、どこまでいっても終わりが無く、いらいらする。 雛香が迷うというのも、なんとなくだがわかる気がした。これなら自身の地下アジトの方がずっとマシだ。 廊下の先、ずっと奥。 わだかまる闇は、あの少年の瞳の色とよく似ている。 『…は?そ、』 それだけ? あぜんと瞬きを繰り返した、黒い瞳。 思わず、苦い笑みが浮かんでいた。 「…え、雲雀さん?」 「何、宮野雛乃」 「なんで笑ってるんですか」 「…別に」 足を早める。 置いていかれかけた雛乃が、「ちょっ、待ってくださいよ」と慌てて歩調を早めるのがわかった。 『…や、お前綺麗に笑うなあ、と』 煽らないで欲しい。 相手は24歳じゃない、14歳だ。 そう自分に言い聞かせているのだから。 「…あの子は、本当に」 「え?」 思わず呟きが口から漏れる。 追いついた雛乃が、こちらをきょとんと見上げ首をかしげた。 煽らないで欲しい。 『…君に何かあったら、僕は生きていけない』 あの言葉は、本心だった。 ずっと隠し通そうと、明かすことなど無くいようと思っていたのに、横できょとんとした顔で歩を進める弟に懇願されたからか赤ん坊に諌められたからか、 否、違う。 おそらく、 「彼が死ぬ」かもしれない状況に再び置かれた、そして自分が置いてしまったと気付いたあの瞬間、 戒めていた鎖は全て外れてしまったのだ。 そうして、 一度決壊した感情はもうとどまることを知らない。 こうもあっけなく大人気なく、彼を手に入れたいと、そう思ってしまう。 「…手、出したいに決まってるでしょ」 そう、 できることなら、全て欲しい、と。 呟いた雲雀の横顔を凝視し、 ああ、と額を押さえて横を向いた雛乃は、長い長いため息を吐いた。 どうやら無自覚で呟いているらしい雲雀の顔は、怒っているとも拗ねているとも判別がつかない。ただ、その頬が若干赤く染まっていた。 ああもう本当に、と雛乃は嘆いて息を吐く。 呟く雲雀の顔は、余裕や大人の理性で無表情を装いつつも、確かにその底に切羽詰まった色をちらつかせていて、つまり、はっきり言ってしまえばそれは、 完全に堪えている男の顔で。 ああ、と。 天井を仰ぎ、再度雛乃は呻く。 兄の幸せを邪魔するつもりはない。 嫉妬という名の殺意は湧くが、しかしまだとどめられる。そう、雛香を独占しようなどとはもう思わない。 だが、切実に願いはする。 どうかこの狼に、どこのどなたか制止の手を。 |