01.


 ピンクの何かと薄い黄緑の何か。二つの何かは真っ暗闇の中を悠々と泳ぐように彷徨っている。
 これは夢なのだろうか。私はまた暗い闇に包まれていた。今度は、上を見ても天井は見えない。本当の暗闇だった。けれど、不思議なことに恐怖心はない。
 私は二つの何かをずっと目で追っていたけれど、「おい」と私を呼ぶ少年の声が聞こえた瞬間、二つの何かは徐々にその姿を消し始める。そして闇もまた、徐々に光に飲まれ始める。

 二つの何かと闇が完全になくなる時、小さな声で聞こえたのは歓迎の声。

「おかえり、この世界へ。歓迎するよ――……の子」


◇ ◇ ◇


 意識が浮上し始めると土と草の香りが鼻を通った。薄い瞼の皮膚越しに、太陽の優しい光が突き刺さる。べチンという音と、頬に何かが当たった感覚、そしてわずかな痛みに気づいた。近くに誰かがいるのだろうか。

『おい。こんな所で寝てんじゃねえよ。人間』

 人間?何を言ってるの、この少年は。
 おかしなことを言う少年が気になり、目を開けたがその瞬間、入ってきた光に視界が白くなる。チカチカとして私に話しかけている相手の顔が見えない。
 若干の嫌悪が入り混じる声と、"人間"という言葉が気になった。君だって人間でしょ。そう言おうとしたが、クリアになった視界に映った相手に驚きその声は出なかった。

『チッ……何でこんな所に人間がいるんだよ。ウゼェな』

 可愛らしい大きな目に似合わない言葉を吐いている、金色の生物。声が男の子の物だったから、少年だと思っていた相手はどうやら人間ではなかったらしい。

『おいお前。さっさとこの森から出ていけ。……いや、言っても無駄か』

 ギロリ、と私を睨みつける金色の生物。
――それは私が長年画面越しに見続けていた架空の生物、ヒトカゲ――らしき生物――だった。……ただし、色違いの。
 目の前のヒトカゲは金色の、綺麗な体の色をしたヒトカゲだった。突然、現実離れした出来事が起きすぎたせいか頭は混乱するばかり。いや、既に混乱しているから私の頭が幻覚を見せるのだろうか。ヒトカゲという生物を、私に。

 しかし何度瞬きをしても、頬を強く抓っても、その幻覚が消えることはなかった。突然の私の奇行に目の前のヒトカゲは訝し気な顔をする。なんだこの人間。そう言われている気がした。

「ほ、本物のヒトカゲ?」
『……なるほど。頭がおかしいから親に捨てられたのか』
「なッ! ど……毒舌すぎる。……それに私、捨てられてないよ」

 そう、捨てられた訳じゃない。ただ突然、理解不能な現象が起きて……。意識を失って、気がついたら木々が溢れる場所にいた。

「……ねえ、君。ここって、どこなのかな?」
『どこって……それよりお前……俺の言葉が分かるのか?』
「――は?」
『答えろッ!』

 彼は突然、何を言い出すのだろう。分かっているからこそ、こうして会話をしているんじゃないか。「分かるよ」ただそれだけの言葉で、ヒトカゲ――ヒトカゲ君と呼ぶことにしよう――は愕然とした表情をする。

『あり……えねえ……』
「な、何が? それより、ねえ! ここどこ!? どうして私、ここにいるの!? ねえ、誰か……教えてよ、ねえッ!」

 駄目だ。だんだんと混乱してきた。私を包んだ暗闇はなんだったんだ。どうして目が覚めた場所が私の部屋でなく、自然あふれる場所なんだ。
 それに"言葉が分かる"とは一体どういうことなのだろう。あまりにも多くの疑問が私の中で渦巻く。
 段々とパニック状態になる私に愕然としていたヒトカゲ君は我を取り戻した。そして『落ち着け』と、静かな声で私を諭す。

『落ち着け、人間。ここはカントー地方、マサラタウンの近くにある森だ。……お前が何者で、どうして俺達"ポケモン"の言葉が分かるのか。そしてどうしてここにいるのか……俺は、それを知らない』

 静かな声で言葉を紡ぐ彼に、少しずつ落ち着いてきた私は彼の言葉に驚く他なかった。
 彼は言った。ここはカントー地方だと。そして、自分のことを"ポケモン"だと。
 私が暮らしていた世界に"ポケモン"という存在は架空の世界にしかなかった。……つまり、ここはポケモンが実際に存在する世界だということで、私は――世界を、越えてしまったということか。
 今の私にこの状況が、言われた言葉が、誰かが考えた悪戯だとは考えられなかった。
 それは闇の中に突然放り出されたということ、その時に感じたリアルな恐怖心、家の近くに森なんてなかったということ、そして何より、目の前に……CGで映しているにはあまりにもリアルすぎる色違いのヒトカゲという"ポケモン"の存在があるからだった。


◇ ◇ ◇


 曰く、ここはあまり人間が入らない森らしい。理由は森の中が入り組み、迷う者が多いこと。そしてレベルの高いポケモンが多く住まう森でもあるからだ。もちろんレベルの低いポケモンもいるが、初心者トレーナーはレベルの高いポケモンに遭遇すると簡単に負けてしまう。
 よってこの森にはあまり人間が入らないのだ。森で迷う心配もなく、ある程度強いトレーナーでない限り。だからこそ、森で倒れている私を不審に思い、起こしたらしい。
 ちなみにこのヒトカゲ君はそんな森で、ずっと一人で生き続けているのだそうだ。恐らく、中々の兵なのだろう。

 意識を失う前にこのまま死ぬのかな。なんて考えていたけれど、私はきっと死んでいない。今までの記憶だってある。髪の色だって変わらない。目の色は……自分で確認することは出来ないけれど、でもきって変わっていないだろう。
 けれど、今確認できることで変わっていることがあった。私が今身に着けている服は、意識を失う前まで着ていた制服ではなかった。
 動きやすそうな七分のパンツ。長袖のTシャツにベスト。靴なんて履いていなかったはずなのにスニーカーを、私は確かに履いている。

 そしてとりあえず、自分の身に起きた現象をヒトカゲに話してみた。自分が暮らしていた世界のことも、家族のことも、私が暮らしていた世界では"ポケモン"は"架空の生物"であるということも。
 全て全て、何も関係ない異世界の生物である彼に話してしまった。彼に何が分かるというのだろう。そう思うが、とにかく今、私には彼しか頼れる人がいないのだ。それに、とにかく聞いて欲しかった。
 彼は口調は悪いし目つきも悪いけれど、きっと人――ポケモンだけど――がいいのだろう。私が突然ツラツラと話し出したことにめんどくさそうな表情こそするものの決して立ち去ろうとしなかった。

 一通り話し終えると、ヒトカゲ君は『とりあえず、……泣き止め』と呆れ顔で言う。
 私は自分でも気づかないうちに泣いていたらしい。ごしごしと服の袖で涙を拭う。

『とにかく、俺に分かることはない。だから、お前はこの森から出て人間が住む町に行け。この森を出ればすぐにマサラタウンがあるはずだ。人間のことは人間で解決しろ』

 薄情だ。と一瞬思ったけれど、結局はそうなのだ。
 私は人間で彼はポケモン。突然異世界云々。ポケモンは架空の生物。この世界の生き物の彼にこんな話をして。なおかつ親切にも倒れている私を起こしてくれたうえに、助言までくれた。これ以上彼に何かを望むのはおかしい。

「……うん、そうだよね。ごめんねヒトカゲ君。それとありがとう」
『…………別に、俺の寝床の近くで死人が出るのは嫌だと思っただけだ』
「それでも、ありがとう。本当に、ありがとう! ……あ、今更だけど私ミライっていうの。ユウキミライ。君に名前は?」

 お世話になった人……ではないけれど、お世話になったのは事実なのだ。しっかりと自己紹介をしてお礼を言わねば。
 そう思い、口にすると訝しがられてしまった。ヒトカゲ君はふんと鼻で笑う。

『野生の俺にある訳ねえだろ。……それより、自己紹介なんてして何のつもりだ?』
「何のつもりって、何のつもりもないよ。本当にありがとうね! ……あ、そうだ。森の外ってどっち?」
『…………そのまま後ろ向いてまっすぐ歩け。30分もしたら出れるんじゃねえの』

 用は済んだろ。とそのまま私の前から立ち去っていくヒトカゲ。最後に、ありがとう!と大きく言えば一瞬、こちらを一瞥した。しかしまた前を向き、恐らく住処に変えるのだろう。草木が生い茂る森の奥へと消えて行った。
 その小さな背中を見届け、ヒトカゲ君に言われた通りくるりと後ろを向く。
(……帰るんだ。家に。絶対……!)
 別に特別親しい友達がいるわけじゃない。だから、二度と友達に会えない。そうなったとしても、寂しさはあれど悲しみはない。
 でも、それが家族となると少し違う。確かにこの世界に来たいと願った。トリップしてみたいなんて思った。
 しかし実際トリップしてみると、トリップ出来た嬉しさよりも家族に二度と会えないのかもしれないという悲しみと不安の方が大きかった。

 だからこそ、帰るんだ。
 元の世界に。家族に。……家族に会えれば、それでいい。


 上を向けば、春の日差しが木々の間から差し込んでいる。きっとまだ、私がトリップしてから然程時間は経っていないだろう。
(そういえば、私ポケモンと喋れたんだ……)
 先程のヒトカゲ君の反応からして、これが普通ではないんだろう。あの時は混乱してそのことに気づかなかったが。
 すっと目を閉じて一度その場で深呼吸をしてみる。ごちゃごちゃと考えてばかりでは何も分からなくなってしまう。大きく息を吸うと、自然に囲まれたこの森に生える木々達の香りがする。どこか懐かしい感じがする不思議な香りだ。
 この森は不思議だと思った。直感的にだけれど。どこか不思議な力が働いているような……。

 ふと、考えるのをやめる。ヒトカゲ君と別れて絶対に30分以上は経っているはずだ。下手すれば一時間近く経っているかもしれない。上を見れば太陽の位置が先程と違っていた。
 それなのに、どういうことだろう。
 私はいまだに、森の中を彷徨っている。……つまり。

「……ヤバい、迷った」

 まさか、異世界に来てまで自分の悪癖のようなもので困ることになるとは。
 ふっとため息をつき、空を仰ぐ。清々しい春の日差しに、無性に腹がたった。

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テーマ「人外ファンタジー」
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