ヤマアラシ (3/3)





気が付くと私は彼のベルトに手を掛けていた。

「今日はしないよ」

その手を彼が静かに制す。

見上げると彼の顔が歪んで映った。情けない顔をしているんだろうなと、頭の中でこの状況を冷静に捉えている私が呟いた。


「……愛してしまったんだ」

彼の声は穏やかで温かくて、いつも私の鼓膜を優しく震わせてくれるのに、今日は嫌な感じだ。揺れが酷くて頭を持って行かれそうになる。

生温いものが頬を伝った。

哀しいだとか、辛いだとかよりも、彼の気持ちを攫って行った見知らぬ誰かが酷く羨ましかった。私には出来なかった事を彼女は容易く熟せるのだろう。


「何で私じゃ駄目なのよ!」

自分の発した声が遠い。

大声に驚いた彼を見詰める冷静な自分が居る一方で、現実の私はヒステリックに何かを捲し立てた。

支離滅裂で、正直自分でも何を云っているのか分からない。それでも堰を切った様に言葉が溢れて来て、止まらなかった。

「お願い、お願いよ」

いつからこんな風に面倒臭い女になってしまったのだろう。

散々喚いた挙句、縋り付くしかないなんて。これで彼に完璧に捨てられてしまうだろう。そう思うと余計に涙が溢れて来た。


しゃくり上げながら「お願いお願い」と繰り返す私の手を、彼の手が掴んだ。

「それは、どういう意味?」

意味なんて、そんなの決まっている。

「僕が好きなのは、君なんだけれど……」

耳を疑う様な言葉に、私は現状を忘れて顔を上げた。

すると彼が今まで見たこともない顔をしている。黒目より白目の割合が多いなんて、切れ長の眼には似つかわしくない。


変な顔だなと見詰めていると、「ねぇ」と彼が声を荒らげた。彼が掴んでいる私の手首がみしっと鳴る。

「……貴方が欲しい」

只それだけだ。私を彼のものにするのではなく、彼を私のものにしたい。愛しているとか、恋しいだとか、きっとそんな美しいものでは無くて。


唇を固まっている彼のそれにゆっくり近付ける。触れて離れるだけの行為に、唇が脈打ち熱が全て集まって来るのが分かった。

彼の唇はかさついていた。そこをふやかす様に嘗め上げ、小さく音を立てて下唇を吸う。けれど彼は固まったままだ。

焦れを息だけで伝えると、ゆっくり彼が口を開いた。


「……本当に殺してしまうかも知れない。それが怖いんだ」

私も馬鹿だけれど、彼も相当なお馬鹿さんだ。

私は笑おうとした。笑おうとしたけれど、涙が出た。涙が出て止まらなかった。


「平気よ。だって、跡を追ってくれるもの」



出会った時からよく泣く人だとは思っていた。彼は赤ん坊の様に声を上げて、わんわんと泣く。その声が私の鼓膜を心地好く揺する。温かい水滴が私の肩と頬を濡らしていた。

満ち満ちている。

けれど何故だか、何故だか小さな針が胸を刺して、ちりちりと痛んだ。




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