短編 | ナノ
壁際の恍惚


蛍光灯の光を程よく反射するクリーム色の壁は、色こそ微かな温かみはあるけれど背をつけていると実に冷たい。視線の先には感情のこもっていない瞳で見つめてくる幼馴染がいて、顔の横には手をつかれている。とても高圧的で目を背けるしか私に残された選択肢はなかった。視線をそらした先にあるグランドピアノを見ては、早く弾きたいという気持ちに駆られた。

「……もう満足した?」
「まだ。」

彼、鳳長太郎は、人を壁際に追い詰めるのが好きらしい。ほかの人がされているのは見たことないけれど。機嫌が悪いといつもこうしてくる。何も言葉を発しないままただ壁に手をついてじっとこちらを見下すだけであとは何もしない。高校1年生にしてはやけに高い身長が重圧が増して、私を余計に縮こまらせているのは、恐らく長太郎くんも分かっていてのことだ。

「……次は何弾くの。」

「…『ラ・カムパネルラ』」

「『愛の夢 第3番』がいい。」

「それはまだ練習始めたばかりだから聞かせられるような音じゃ…」

「それでも構わないよ。なまえのピアノが聞きたい。」

長い沈黙のあとは決まって一曲聴いてから練習室を去る。いつだって私の気付かぬ間に練習室に入っては私が気づくまでずっと黙って聴いているくせに、しかも必ず次に何を弾くかを聞いた上で違う曲をリクエストしてくる。
私は恐る恐る彼の体のあいだを抜けて椅子へと腰をかける。楽譜をめくり楽譜どめを差し込むと、「捲ってやる」と言って楽譜を押さえてくれた。彼なりの優しさだとは思うのだけど、こんなにも近くで見られると緊張してタダでさえ弾けない曲が更に弾けなくなってしまう。でもそんなことを言うとまた不機嫌になってしまうのではと思うととてもじゃないけれど口には出せなかった。
ひと呼吸置いたあと、ゆっくり鍵盤に手をかけ、ゆっくりと音を紡ぎ始めた。長太郎くんはじっと私の手元を見ている。どうせ見るなら手元じゃなくて楽譜を見て間違っていれば指摘するなり何なりをしてほしい。しかしそれもまた本人に伝えることはできないまま心の中に溜め込んだ。
曲の中盤に差し掛かり、次第に指がもたつくのが分かる。先程までの滑らかな旋律が乱れて弾き直しも増えていくのに対して、恥ずかしくてたまらなくて熱が顔に集中した。依然として言葉を発しない長太郎くんが何を考えているかも分からなくて、ついにはピアノを弾く指がピタリと止まった。

「…どうしたの?」

「ごめん、私用事思い出したから…か、帰るね…」

「じゃあ俺も一緒に帰るよ。」

「えっ……」

長太郎くんの予想外の返答に言葉が詰まる。「だめかな、」なんて、子犬のような目で見つめてくる彼に滅法弱い私は、思わず首を横に振りそうになるのをぐっとこらえて断りの台詞を吐こうとした途端、ノックもなしに突然扉が開かれた。視線を向けた先には、綺麗に切りそろえられた栗色の髪の中から涼し気な瞳を覗かせ、形の整った眉は少し歪ませてはいるがその整った顔は間違うことなく同じクラスの日吉若くんであった。直接言葉を交わしたことはないが、幼稚舎の頃から長太郎くんと仲が良かったことを知っていたし、中学の頃に部活の試合を見に行った時によく話し合っているのも見かけていた。そんな彼がなぜ突然、ノックもなしに練習室に入ってきた理由は、恐らく私ではなく隣に立っている長太郎くんに用事があるからであろう事は簡単に伺えた。それが急ぎの用なのも。

「メールを送った。電話もかけた。」

「え?あ…ごめん。ピアノ聞いてて気づかなかった。」

「宍戸さんからの伝言。せっかくのオフだからビリヤードでもしに行かないか、とのことだったが、行かないよな。」
「わ、私っ!もう帰るから…行ってきなよ。宍戸さんって、ちょ…お、鳳くんの大好きな先輩でしょ?」

長太郎くんが首を縦に降ってしまわないうちに間髪入れずそういうと、二人とも驚いた顔を浮かべ、長太郎くんからはまた表情が無くなっていくのがわかり、少し怖くなった私は手早く帰り支度をして「また明日」と短く言葉を投げかけ練習室を後にした。

いつもより少し早歩きで下駄箱までいき、長太郎くん達に追いつかれないようにといそいそと靴を履きかえる。そして一歩足を前に出した時、後ろに誰かの気配を微かに感じた。

「みょうじ?」

「…跡部先輩。」

「一人で帰るのか?鳳はどうした。」

「宍戸さん達と遊びに行くらしいですよ。私も今日はピアノの練習は少しだけにしてどこかに寄り道して帰ろうかな…と。」

「一人で寄り道、ね。」

クツクツと喉を鳴らして笑う跡部先輩に顔が少しむくれる。私が気を悪くしたことに気づいた跡部先輩は、顔に笑みを浮かべたまま「悪い悪い」と言って私の頭を優しくなでた。程よい低音が耳に心地よい。
私と跡部先輩が知り合ったきっかけは、長太郎くんではなく榊先生であった。私がまだ幼稚舎の6年生だったころ、校内の協会にあるパイプオルガンが協会の建て替えと共に調律されると風の便りで聞いた私は、工事が始まる前にこの手で弾いておきたいと思い、授業後足早に教会へと足を運んだ。
幼稚舎に入ったばかりの私はよく協会に入りびたりオルガンの音を聞いていた。ほぼ毎日のように足繁く通ううちに、協会の人たちと仲良くなり、自分がピアノを弾けることを話すと「一度弾いてみるかい?」と言われ、パイプオルガンの弾き方を優しく教えてくれた。
そんな経緯があった為、誰よりもあの協会に思い入れがあった私は息が粗くなるのもお構いなしに教会へとたどり着いた。しかし、扉の前には先客がいて肩を落とした。気配を感じたのか、私の足音に気が付いたのか。おそらく後者である先客はこちらに振り返った。その先客が榊先生と跡部先輩である。夕日に照らされる色素の薄い髪と瞳に視線と心を奪われたのを今でも覚えている。今思えばそれが初恋ではあったけれど、今はもうお兄ちゃんのような存在だ。
もともと榊先生と親しかった私は、先生に促されるまま先輩の前でオルガンを演奏させられた。それからというもの、跡部先輩とは親しくされていただいている。

「一人で寄り道するなら俺様のうちに来ないか?昨日グランドピアノの調律が終わったところでな、久しぶりにお前のピアノが聴きたい。」

「え〜、私もうレストランでピアノのバイトしてお金稼いでるんですよ〜?」

「跡部財閥の家屋で、お前の好きなガレーのチョコレートがあるのに、それ以上を求めるのか?」

「…行きます。」




* * *




長太郎くんの機嫌がいつにも増して悪い。今日は肘から下の腕までを壁につけて、距離が近い分威圧感いつもの比じゃない。普段は物腰柔らかですごく優しいのに、この瞬間が唯一苦手。中学を卒業するまではこんなことなかったのに、高校に上がったとたん彼の中の二面性が大きく表れ始めた。ただ、いまだに分からないのがこの行動の意味である。壁際に追い詰めるだけ追い詰めといてあとは見つめるだけ。正直、いつも変な気を起こしそうになる。おそらくだけれど、彼は私を自分の作った空間に私を閉じ込めることで一種の独占欲と支配欲を満たしているのではないかと推測を立てている。変な気が起きてしまいそうなのは、少なからず彼に思いを寄せていて、その独占欲を私に向けられていることに対する優越感が恍惚させているから。感情のこもっていない瞳の奥に少しの熱を感じると背筋が粟立つ。

「昨日の用事、跡部さんと約束してたの?」

「え、いや…それは」
「ていうか、跡部さんといつ知り合ったの?随分親しそうでさ、昨日今日の付き合いではないよね?」

「…よ、幼稚舎の…6年生の時…から…」

「……そんなに前から?」

「当時からよく出かけたり、家に招かれてピアノを聴いてもらうことも多かった…かな。」

「そんなの知らなかった」

「言ってないもん。」

「…面白くないなあ」

「え、」

あからさまに眉をひそめた長太郎くんはついに私の頬に手を添えた。その手は少し冷たくて、思わず肩がはねてしまう。まっすぐこちらを見つめる瞳は、悲しみのような、怒りのような悔しさのような、様々な感情が入り乱れているようで、その瞳から目が離せなかった。

「なまえのことは俺が一番知っていると思ってたのに、跡部さんと一緒にいるなまえは俺といる時とは違う表情だったのが悔しくてたまらない。跡部さんは俺となまえ」が幼馴染だって知っていたのに、俺はなまえと跡部さんが親しい間柄だったことを4年も知らなかったことが悔しくてたまらない。」

「長太郎くん…」

「何よりも、こんなことでしかなまえを繋ぎとめておけない自分が情けなくて、腹が立つ。」

濡れた瞳でそう告げた長太郎くんは、そのまま顔を近づけ、思わず目を瞑った私の瞼に彼の唇が優しく触れる。流れるように肩に顔をうずめてるその姿はとても小さく見えて、愛しさで肺の奥が縮こまるような感覚がした。たまらず彼の背中に腕を回すと、彼の耳に口づけた。あまりにも驚いたのか、勢いよく体を引きはがし冷たい空気が割って入る。

「私はね、長太郎くん。長太郎くんがピアノを習っていたから真似してピアノを弾きはじめたの。長太郎くんが氷帝に受験するって聞いたから真似して氷帝に行きたいって親に頼んだの。…こんなこで繋ぎとめていられるほど長太郎くんのことが好きなのに、いつまでも想いを伝えられない自分が情けないんだよ。」

「そ、れって…」

「ここまで来て言わせるの?長太郎くんってそんな意地悪だったっけ。」

「俺は、なまえを自分のもとに繋ぎとめておきたいくらいなまえが好き。」

「ふふっ、あのね、私『愛の夢 第3番』ちゃんと弾けるようになったの。聴いてほしい。」

「え、それだけ?付き合おうとかは、」

「そういう話は演奏が終わってからにしようよ。早くピアノが弾きたい。」

長太郎くんの横をすり抜け、椅子に腰かけ鍵盤に手をかけた。ゆっくり紡ぎだされる音色に腑に落ちない表情の彼も穏やかな顔つきになり、昔のような空気に包まれながら、滑らかな旋律だけが私たちの周りに響いていた。


    
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