moment_zzz







鍵を開けて歩みを進めると、視界に映ったポニーテール。恋人が夜遅くにこの髪型でいるのは、決まって終わらない業務に追われている日だ。

部屋に入り声を掛けると、振り返った彼女が笑顔を見せておかえり、と言う。
普段なら玄関まで出てきて抱きついてくるその手はペンを握り、テーブルに積み重ねられたファイルの山の間に広がる紙に、大量の文字を書き連ねている。
ソファに乗り上げて座ると、テーブルと私の間に座り込んでいる彼女の長い髪が揺れて、シャンプーの甘い香りがした。


「アイス買ってあるよ」


髪を頭の高い位置で結んだ、眼鏡の向こうでいつもより少しだけ釣り上がった大きな目が印象的だ。いつもなら「一緒に食べよう」と続くそんな台詞を思い浮かべながら黙っていたが、会話はそこで終わり、「手が放せないから勝手にどうぞ」なのだと解釈する。

知らされた通りに冷凍庫に入っていたアイスクリームを食べながら、一心不乱に何かを書き続けるその様子をしばらく観察していると、今日のこれが、いつもとは比較にならないほど追い詰められている状態なのだという結論に達する。

空になったアイスクリームの容器をテーブルの空いたスペースに置きながら、その真剣な横顔を窺うが、私の視線になど気付きもしない。

眉間に皺を寄せて目を擦りながら書類を睨む彼女は、澱みなく文字を書いていた手をぴたりと止め、頭を抱えて首を傾げると「あ、違うか、違うのか…」と絶望の淵に佇んだような声で唸り、「いや、まだある」と呟いた後、ペンを走らせて今度は「私は間違っていない」と、無理矢理作り出したような確信めいた声で己を励ましている。

こうして独り言の多いひとだ。
私が黙っていてもこの場には何かしらの音がある。
それでも、静かだ。この部屋に来れば自動的に始まる彼女のお喋りを、私はいつも喧しく感じているはずなのに、ないならないで酷く物足りない。自分が本当は、へらへら笑いながら紡がれる彼女のオチの無い話を求めているのだと思い知るのはこんな時だ。

それでも今、この状況でそれを求めるのは流石に気が引けて黙っている。

これくらいは許されるだろうという気持ちで、目の前にある長い髪を指に絡ませて弄んでいると、不意にぐう、と、間抜けな音が聞こえた。よく聞くあの音だ。

彼女の分かりやすい性格と同じように、その身体もまた分かりやすい。その事実をすっかり知っている私は、空腹なのだろうかと思いながらそれを聞き流したが、それから何度その音が繰り返されても、当の本人は仕事に没頭しているようで気付いてもいない様子だ。

そこでひとつ
緊急的かつ重大な疑念が生まれ、ついに私は言葉を発する。


「食事は?」

「あ、お腹すいた?なんか食べる?」

「いいえ、あなたですよ」

「私」

「食べてるんですか、ちゃんと」

「あはは、忘れてた」

「忘れてたとは」

「えーっと」


短い言葉の会話を繰り返し、ようやく手を止めた彼女は、私を振り返って目を合わせると、何でもないことのように笑いかけてくる。


「昨日の夜から食べてないや、そういえば」


いつも人の食事や睡眠に関して、ああだこうだと心配してくるくせに、何という体たらくか。まさかとは思うが、もしかしたら寝られてもいないのではないかという疑いも浮上する。ついさっき目を擦っていたあの分かりやすい仕草を思い出し、苦々しい気分になる。

他の誰がそうであっても別に私は何も思わない。しかし、普段規則正しく生活している彼女にとって、丸一日食事摂らないとはただ事ではない。驚いて言葉を失っている私を尻目に「大丈夫大丈夫、ちょっとくらい食べなくても死なないよね」とそのまま再び仕事に戻るのだから、空いた口が塞がらない。

それからの彼女は、何を言っても右から左といった様子で、火がついたような勢いで書類を書き上げていく。もう、どんな言葉もまともに届きはしなさそうだ。

私がLであることと同じように、彼女も望んでその仕事をしている。幼い頃から目指していて一生懸命勉強してなったのだと本人も言っていたし、毎日必死で取り組んでいることも、それが彼女にとって重要な活動だということも、もちろん解っている。

それでも、私に言えた義理ではないのは百も承知で、と前置きをしてでも言いたくなる。

もっと自分を大事にしてほしい。それは、彼女が自分にとって唯一無二の存在だからだ。さらに欲を言えば、他のことなど投げ出して、私にだけ夢中になっていればいいのに、と思うのだ。


「こんなことをしてたら倒れますよ」

「うん、そうだよね、気をつける!」

「顔色も良くないです。寝てないですね?」

「大丈夫、あと少しだから頑張る!」

「うちにお嫁に来ませんか」

「あはは、なーに言ってんだか!」


こんな状態の恋人に打ち明けても、きっと軽く流されるだろうとは予想していた。しかし、ここまでとは。

生まれて初めてのプロポーズを「あはは、なーに言ってんだか!」という軽率極まりない台詞で弾き返され、想像以上の落胆と多少傷ついた気持ちで具合が悪くなりそうだ。今自分の顔には、それが見事に表れているだろうが、顔を上げてもくれない人間には知る由もないことだ。


「うおー!あと1時間でやっつけるからね!」


普段は何より私を優先し、いくらでも甘やかしてみせる恋人に雑に扱われてしまった結果、
この狭い心の中には様々な不満が生じているけれど。

スイッチの入った小さな頭を眺めながら、諦めるしか無いのだと悟る。
今日はその仕事が終わるまでおとなしく待っているしかないのだ。
私の部屋に来た彼女がいつもそうしてくれるように。

プロポーズはいつか、平常心の彼女に特別な言葉で。そう心に決めた私は、重い腰を上げてキッチンに向かうしかなかった。





























● ● ●



「えっ!ごはん作ってくれたの!?」

「仕方ないので」

「作れたんだ…!感動よこれ」

「味は知りませんよ」

「うう、嬉しい、ありがとう、好き、結婚して!」

「…アハハ、ナーニイッテンダカ」





プロポーズ未遂事件






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