「まんまるだね」
「満月ですからね」
バルコニーの柵に手を掛けて、冷たい空気に肩を震わせた彼女が零した言葉。その澄んだ声は、風のない闇の中に溶けていくようだった。
「綺麗だけど不思議。なんか、ゾッとする」
そう言って夜空を見上げた彼女のまつ毛の形が、ガラス張りの窓から漏れる室内の光と、ささやかな月明かりで小さな影を落とした。大きな目が瞬くたびに、滲んで見える丸い瞳に吸い込まれてしまうような。その様を隣で眺めながら、きっとこんな夜を「美しい」と言うのだろうと他人事のように思っていた。
「こんな月を見てたらね、」
鈍い光をうっとりと見つめた彼女が、不意に顔を傾けて目を細くして言った。
「卵かけごはん食べたくなっちゃうよね」
「信じられないセンスですよね、それ」
「あ、そっか。生たまご嫌なんだっけ」
「それも、ですけど」
彼女が小さく声を上げて笑うと、目尻が下がって黒目が蕩けて見える。満たされたようなその表情を見ていると、こちらまで顔が緩んでしまいそうになるのが常だ。誤魔化す為に目線を外して空を見上げると、確かに卵を割って出てきたような色で輝く月が目に映った。
「狼人間が、変身してるかな」
「そっちのほうがまだロマンがありますね」
「あは!エルがロマンだって。面白い!」
「失礼な」
「お!怒った?狼に変身するのかな?」
「…しませんよ」
「なんだ、しないのか!」と残念そうに口を尖らせた彼女が一体どういうつもりで何を考えているのかなど分からない。意味のない冗談話に付き合うのは正直疲れるけれど、こんな他愛のないやりとりが、きっといつか思いがけない瞬間に脳裏に蘇るのだ。そして胸の奥で「懐かしい」という痛みにも似た妙な感情を生み出すことを、私は知っていた。彼女と同じ時間を過ごして自然に思い知った摂理だ。
強い風が吹いて、腕を引かれてポケットに突っ込んでいた掌が攫われる。 冷えた小さなふたつの手が、何かを訴えるように私の左手を包み込んだ。
「この前テレビで観た。満月の夜は、凶悪な犯罪が増えるって。それって、本当?」
「そういう統計もありますね」
「今も、どこかで誰かが悪いことしてるのかな」
「かもしれませんね」
不自然なほど静かだったその夜に、思い出したように風が吹き始めた。 そして、つい数十秒前までけらけらと笑っていた彼女があまりにか細い声で言葉を繋ぐものだから、私は咄嗟に言葉を濁して嘘を吐いた。 本当は、月の満ち欠けどころか昼夜問わず、いつでも世界のどこかで何かしらの事件が起こっている。しかしその真実を吐き付けることを憚らずにはいられないほど、夜風にさらされるその姿が小さく頼りなく見えた。
そして、私は、唐突に彼女が月を見たいと言い出した理由をようやく理解した。
不安げに揺らぐ彼女の視線はきっと、こんな月を恐れているのだ。
「あんなものは、卵かけごはんですよ」
「そっか」
「あなたにかかれば30秒です」
「む。そんなに早食いじゃないよ」
「では、1分ならどうでしょう」
「…まかせて。いけると思う」
「さすがですね」
ありもしない心霊現象を恐れる子どものような、漠然とした恐怖が彼女の心を苛んでいるのなら。そしてそれを他でもない私に打ち明けてくれたのならば、なんとかしてやらなければと思った。
何故ならきっと私は、まるい月を見るたびにこの夜を、彼女のことを思い出す。そんな予感がするのだから。 願わくば、その時脳裏に映される彼女の表情が、悲しみや恐怖に歪むものではなく、喜びや希望に満ちたいつもの笑顔で在ってほしいと思えばこそ。
「わ、風が強くなったね」
音を立てて通り過ぎる風に飛ばされてしまいそうな身体を引き寄せて抱き止めると、シャンプーの香りを纏った小さな頭がすっぽりと腕の中に納まった。乾かしたばかりの髪を指で梳かせば夜の空気が染み込んだように冷え切っている。そのまま隠れた耳を探り出して「寒いのでもう寝ませんか」と切り出すと、胸元に顔を押し付けた彼女が数回頷いて顔を上げて、へらりと笑ってみせた。
「ねえ、エル」
「はい」
(ありがと。だいすき)
風の音でかき消されて聞こえなかった言葉は、その唇の動きを読まなくとも、本当は直ぐに解ってしまったのだけれど。わざと気付かない振りをして耳に手を当てて返してみる。
残念ながら、さすがの彼女も二度繰り返すことはできなかったらしい。 暫く黙ってバツが悪そうに俯くと、突然何を思ったのか。月の光で変身したらしい彼女が勢いよく襲い掛かって来たので不覚にも驚いてしまったのだった。
「ガオー!」
「何故あなたが」
「まんまるですね」
「…竜崎、お前本当にやる気がないんだな?」
「ライトくんはあの月を見てどう思いますか」
「…は?月?ああ、満月か。綺麗だな」
「それだけですか」
「他にどんな感想があるっていうんだ?」
今はもう隣に居ない、彼女を思い出した。 まるい月を見て、卵かけごはんが食べたくなる、と言って笑った。 この無機質な部屋で回想するには、彼女の体温や匂いや声や言動はあまりに幼く、あまりに優しく、懐かしさに胸が裂けるほどに、今でもこんなに愛おしかった。
「いいえ、野郎二人で月を見上げるなんて正気じゃないですね。気持ち悪い」
「だったらこの手錠、外さないか?」
「ええ、そうしたいですよ、一刻も早く。だからとっとと白状してください。自分がキラだと」
まるい月の夜に
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