午前0時。パソコンの作動音以外の物音が消えていた。濡れた髪を乾かしてくると言ったきり帰ってこなかった恋人の眠くなる時間だ。 なんとなく寝室を覗いてみれば、すでに夢の中にいるのだろうという予想に反し、ベッドに腰掛け珍しく黙り込んでいる彼女の姿が見えた。
「モテたいんですか」
「そりゃ、できるならモテたいなあ」
玩具みたいな黒い縁の眼鏡を掛け、姿勢良く背を伸ばした彼女が真剣に読んでいたのは「徹底的にモテたい!いい女のテクニック100選」というあからさまなタイトルの自己啓発本。 「できるなら」などと控えめに答えたくせに徹底的にモテたいとは、その願望が生半可なものではなく、かなり本気なのだろうと窺える。
「勉強になることが書いてますか」
「うんうん、なるほどねーって感じ」
隣に飛び乗り視線を落とせば、ちらりと目線を寄越した彼女が感心したように力強く頷き歯を見せて笑う。 ほら、と見せられた見開きのページには、「インテリ系男子」「体育系男子」「子犬系男子」など、相手の属性とやらを妙なカテゴリで分別し、各系統の人間に対して最も効果的なアプローチ方法が事細かに書かれてある。裏表紙に記載されている定価2500円の文字が目に入り、先日298円の野菜を手にして「キャベツが高騰している!」と嘆いていたこの人の金銭感覚がどうなっているのかと疑わしく思った。
「男子も色々いるんだね。まずは相手が何系男子なのかが分からなきゃ何もできないなあ」
「手当たり次第に全部試せばいいのでは」
「だめだめ、『複数の属性の男子に同時にモテようとしたら確実に女には嫌われます。』だって。友だちいなくなっちゃうよ」
「割と辛辣なことを書いてますね。子ども向けではなさそうです」
「うん。合コンでお目当ての男子にお持ち帰りされるための手口とかあるもん。これは大人の上級者向けだよ」
「上級者」
「泥酔したふりをしつつ相手の挙動から本気度を探れってさ!ドラマの世界だねえ」
世の中の大多数の女性がやってのけるであろう誘惑の手口をフィクションだと言う恋人は、それが自分には使えないと思い込んでいるらしい。 彼女がけらけらと笑うと風呂上がりの髪が揺れて、シャンプーの甘い匂いがする。眼鏡の奥で瞬く素顔の瞳は眠た気で、いつもよりずっと幼く見えた。
「今までモテたことはないんですか」
「うーん。とんと記憶にござらんね」
絶対に口にはできない本音を明かせば、嘘を吐いたり、酩酊状態を演じたりしなくとも、今彼女の隣に居る男は正直すっかり参っている。
こうしていつの間にか呆気なく、彼女の無防備で無計画で無自覚な横顔に目を奪われてしまうのだから。 こんな人の何でもない仕草にまんまと釣られそうだというこの現状について、情けないような、悔しいような、それでいてどこか嬉しいような妙な心境になっていることは、絶対に知られてはならない。それだけは強く思った。
「大丈夫です。あなたは充分可愛いですよ」
「ちょっと!その可哀想なものを見る目はやだ!」
眉を顰めてムッとした表情を作りながらも、可愛いという慰めの言葉を完全に無視することはできなかったらしい。直後に照れたようにニヤニヤしはじめるという神技を繰り出した彼女は、それからまた目線を落として勉学の続きに勤しむ。
へらりと笑った顔がスタンダードの彼女は、ひっくり返した万華鏡のようにころころと表情を変える忙しい人だ。現れた模様はそのどれもが綺麗で、様々な感情に満ちている。私にはとても魅力的に見えるのだが、そんな彼女はモテないらしい。純粋に、何故だろうと不思議に思うけれど、ただただ、私は幸運だったに違いない。
「でもね、ここに書いてあるけど誰しも人生に1回はモテ期があるんだって」
「はあ」
「私もこの先、あるのかな?モテるのかな!」
こうして私が殊勝な心境になっているというのに、徹底的にモテたいらしい彼女は、今後どこかで不特定多数の男に言い寄られる事態が起こることを期待し、目をキラキラさせている。
私は今、はっきりと認識する。 この話題は全くさっぱり面白くないのだと。
「いいえ、もうすでにありましたよ。モテ期」
「うっそ!いつ?」
「ちょうど初めて会った頃ですよ。連続殺人犯や、痴漢やストーカーに熱烈に好かれていましたよね」
「待って待って、犯罪の人はノーカンにしてよ」
「残念ですけど、事実モテてました」
「人生に1回しかないモテ期があれだなんて」
「現実とは残酷なものですね」
「ほんとそれね。あんまりだよ」
言葉とは裏腹にそこまで悲観に暮れた様子もない彼女は、「なんだなんだ、こんなん意味ないじゃん!」と本を投げ出した。どうでもよくなったらしい。 ベッドの上にころりと転がった拍子にパステルカラーのパジャマが捲れる。 仰向けの小さな身体の白い腹がちらりと見えると条件反射のように触れてみたくなる。思ったままに手を伸ばし柔らかく温かい肌を撫でると、擽ったそうに身を捩らせた彼女が小さな笑い声を上げた。
「はあ、なんか眠くなっちゃったな」
仰向けのまま眼鏡を外し目元を擦るこの仕草だって、決して狙っているわけではないはずだ。 それでも、その一連の動作を眺めながらこの人に好きに触れられる人間が、未来永劫自分以外に現れなければいいのにと思ったりする。 つまり、私は彼女にいかれているのだ。
「あれ?エルももう寝る?一緒に寝る?」
気付いたように投げかけられた言葉は無視して、ヘッドボードに手を伸ばし照明を落とすと、オレンジ色の細やかな光の中で頭を起こした彼女が、嬉しそうに笑う。 場所を譲るようにして身体をずらしはじめたその両手を捕まえ動けないよう拘束すると、あれ?と間抜けな声が響く。
「私、まだ眠くないんです」
「あらら、そっか」
「もう寝たいですか?」
膝立ちで乗り上げた脚で、無抵抗な身体を跨いで見下ろすと、ようやく状況を理解した様子の彼女が目を細めてはにかんで、首を横に振る。
「ううん、まだまだ起きてようかな」
捕まえた両手を掴んだまま腰を落として顔を近づけると、直前で瞬きをした瞼が震えて、微かに頭を浮かせた彼女の唇が触れる。 嬉しそうに弧を描くラインを残したまま、何度も音を立てて重なるそれは熱くて柔らかい。
すぐにでもそこをこじ開けて舌を差し込み深く追いつめたい衝動に駆られたけれど、目を合わせながら繰り返す子どものようなキスは案外心地良いもので、なんとなく終わらせてしまうのがもったいない気もする。 触れるだけの焦れったい行為を続けていると、不意ににっこりと微笑んだ彼女が楽しそうな声で言った。
「気持ちいいね」
「まだ何もしてませんけどね」
捕まえていた手を離し紅潮した頬を撫でると、自由になった細い腕がすぐに背中にしがみ付いてくる。 ぎゅっと引き寄せられながら、呼吸のリズムをわざと外したタイミングで舌を潜り込ませれば、あっという間に息を上げる彼女。ベッドのスプリングが軋んで、長い髪の毛が乱れていく。 それでも目を潤ませた必死な反応が返ってくると、たちまち溺れていくような感覚になるのはいつだって私の方だ。
捲れたパジャマの中に潜り込ませた手の動きに合わせて溢れる擽ったそうな笑い声と、繰り返すキスの熱っぽい吐息が混ざって、全身を纏わりつく空気が温度を上げる。もう、止められない。止めたくない。
「…っ、ねえ、エル、エル、」
それなのに、パジャマを捲り上げて下着に手を掛けいよいよこれからというところで、だ。 小さな手のひらに頭を掴まれて、突然ストップをかけられてしまう。
「そういえばあの本ね、いちばん知りたいことが書いてなかったんだよね」
脱がせたパジャマを床に投げ捨てながら冷めた目線で訴えても、眉を顰め己の疑問について深刻に考え込んでいる彼女は気付かない。 こんな風に、うっかり始まってしまった場違いなお喋りをどうやって黙らせようかと思案させられるのも、彼女と過ごす夜ではよくある話だ。 スイッチが切り替わって一気に雪崩れ込んでしまいたいというこんなに単純な男心が分からないのだから、この人はやっぱりモテないのだろうなと思った。でも、それでいい。それだから、いいのだ。
「何を知りたかったんですか」
「名探偵男子は、どんな女の子が好きなの?」
なぜなら、答えは明白だ。 今目の前にいる。 絶妙な声色で首を傾げる悪戯っぽい目をした空気の読めないこの女こそがそれだ、と思うから。
「自分の髪の毛を食べている人ですかね」
「何それ、変なの」
「あなたですよ」
頬に張り付いて口の中に入り込んでいた髪を払いのけてやると、きょとんと丸く見開いた目が今更のように照れ始める。滲んだ黒目がうっとりと瞬きを繰り返すのを見つめていると、突然服の中に手が差し込まれる。一体これがどういう経緯でそうなったのかはよく分からないけれど、何はともあれ彼女がその気になってくれたらしいので、この話はもう終わりだ。
「ねえねえ、もっと、ちゃんと教えて」
教えてあげない
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